2022-05-01から1ヶ月間の記事一覧

常識を「非常識」に捉え直すこと

昨日は、某国立大にて志願先の研究室の教授と面談をしてきました。 総じて、非常に手応えを感じられた有意義な時間でした。その後は、ツイッターで前から仲良くさせてもらってる相互さんと、駒場東大前にある河野書店さんにて合流。お互い本を手に取りながら…

あなたの欲望は誰のものか

みんながそうだった、というわけではないが、僕の身の回りでフェミニズム思想、およびその流れにおいて自由と平等の概念的な再構築を主張する人たちでも「家庭持って安定した生活したいから結婚はしたい」という人が案外多くいた。 しかし、婚姻が社会的に制…

言葉の本来性が淘汰された「コミュ力」

率直にいって、僕が何度もしつこく言葉の「モノ化」、あるいは言葉はコミュニケーションの「ツール」にすぎないとするナイーブな考え方を嫌悪するかというと、言葉の多義性に耐えられないとどんな事柄も本質的に理解することが難しくなるから。 だが、ほとん…

「対話的理性」を追い求めて

最近はひたすら、認識論と一般言語学の2つの側面をどう掛け合わせて、精神疾患を対象とした哲学研究をしようか考えている。 具体的には、次のとおりだ。一概して、精神治療法のあり方、医者と患者の臨床的な関係性、そして医学的権力を行使する主体としての…

言葉は喋れてなんぼなのか

語学の習熟度の図り方として、その根底の考え方には「喋れてなんぼ」という意識があるのかな、と思う。一般論としても、コミュニケーションのための手段として言葉を習得するというのがある種の「常識的」な見方とも言えそうだ。 小難しい言葉使うならば、そ…

クリスチャンの視線による認識論

〈創世記 1:27(口語訳)〉 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」 * 最近だと、人は目に見えるものだけを認識できるとする実証的な科学像が常識的な価値観として受け入れられるようになっている。 …

今後について:研究的な側面から

すでに察しのついた方も大方いらっしゃるかと思いますが、僕は非常に精神が揺らぎやすい人間です。大学院での研究テーマは、皮肉にも精神疾患の哲学に根ざしたもので、ミイラ取りがミイラになるようなものじゃないかと思われるのも一理のある指摘ではありま…

イデオロギーとしての「健常者性」

現代人は己の理性が「健常」であることを信じて疑ってない。ちゃんといえば、「近代的な」現代人なのだ。自己に内在しうる異常性はほぼその認識の盲点に等しい。いわば、「おかしいやつ」は、たとえその人へのそのような印象が誤謬であったとしても、他人の…

新しい環境

地元に日常用の住まい。そこから電車で20分離れた場所に、自分の「研究室」の代わりになりそうな「別荘」となる住まい。この2つを我が家のものにしようという話が上がっている。 もし、そうなったら僕としては嬉しい。なぜなら、今まで住んでいたマンション…

悩みのふりこ

心の疲弊とは別腹であるかのように、頭の動きは緩くなることを知らない。そんな性分だから、いつも精神衛生的に良くない思考や、感情が込み上がってはいつも呑み込まれてしまう。できれば、頭を休めたい。だが、せめてブレーキの掛け方をうまく習得するのが…