「対話的理性」を追い求めて

 最近はひたすら、認識論と一般言語学の2つの側面をどう掛け合わせて、精神疾患を対象とした哲学研究をしようか考えている。

 具体的には、次のとおりだ。一概して、精神治療法のあり方、医者と患者の臨床的な関係性、そして医学的権力を行使する主体としての病院、というこの3つの観点をもとに、わたしたちにとって「ふつうの人」とは何を意味するのかを探求する。

 まず、修士課程ではグレゴリー・ベイトソンミハイル・バフチンの思想をもとに、近年精神治療法として注目されている「オープンダイアローグ」の展望について論考していく。どちらか言うと、従来の医学的な治療法(投薬治療、病棟への隔離など)とは違った形の治療法として、どのような「対話」の場を創り上げるべきか、「対話」をすることの意味を哲学的な背景を踏まえながら研究していきたいと思う。

そして、もし博士課程まで進学したときには、そのような対話的な状況において、各自の主体(Subject)がどのように作用され、また反応を示していくのかを、ジャン・ピアジェミシェル・フーコーの思想を下敷きにして研究する。ここで言う主体とは、人の知識、理解、思考、意識の源として概念化している。さらに、この主体性の議論を発展させるべく、その次にはユルゲン・ハーバーマスの思想も参照した上で、人間の理性の、対話的な側面に則って脚色された姿とは何かを描いていくこととする。

 一時的ではあるが、ここに至るまでの議論の対象を、「対話的理性」と私は呼んでいる。これらの思想背景を踏襲した精神疾患の哲学をもとに、近年増加の傾向が著しい精神疾患の問題へ何かしら提言ができれば、と思う。

 最終的に目指す着地点は、我々が日常的に思い描く、健康の「本来的な」姿は、近代以降の医療機関によって規範的に生成され、我々の無意識の中で常識的な価値観として落とし込まれたものであると、論ずるところにある。そして、ちょっとでもと立ち止まって、そのような「健常者」のあり方が、人の健康の理想的な姿なのかを、慣例的な了解から自身を意図的に遠ざけてみて考えてみるきっかけを提供できれば本望である。