うつらうつら

ツイッターなどで)フォローしてくれる人が増えた。あの人に自分の文章が読まれた。数の力と他者からの承認は、簡単に自分が本来いた場所から離れていく契機となる。

綺麗事でしかないと言われたら、そうだとしか言えない。僕自身、それで知的な刺激をたくさんもらったところもある。だけど、何よりもその過程で心が虚ろなドーナツになっていた。

少なくとも、僕はそれらで自分の人生を狂わせた。余計なお世話だとわかりながらも、それが普通だと信じる周りが心配になる時がある。満たされながら、虚しくなっていく。自分が抜けていく感覚に耐えられるほど、僕は強い人間ではなかった。

「自分らしさ」が反映される生活の送り方。そんなものすら、余計にうつらうつらとした絵空事のように思えてしまう世のあり方。僕自身も、そんな市井の作品の一つでしかない。

自分の人生は、自分で決めて歩んでいく。右ならえ、右!と言わんばかりに皆そう言うし、そう考えているだろう。だけど、なぜ意図せずとも人は眼差しの地獄に喜んで身を投じるのだろう。

「わたしはわたし、あなたはあなた」。確かにそう。しかし、その生き方において、「あなた」が思い描く主体的に考え動ける〈わたし〉は、本当に存在しているのだろうか。

仮に、それ「らしさ」が残存するとしても、そのような「あなた」は、いつのまにか見ず知らずの、他の「あなた」と同化しているのではないだろうか。

それが現実だから。それも然りだ。しかし、それがあたかも「これはルールだから」と言う捨て台詞と同じ意味の言い回しになってしまったことに、余計に虚しさを覚える。

かくいう僕(「わたし」)も、そのような檻の中に閉じ込められている。ところで、想像力だとか、「ポエム(笑)」に対する冷笑について考えれば、それだけでも長い歴史的な記述ができるだろう。

しかし、そう嘲笑うあなたが、自伝を書くとしよう。その綴る言葉のうち、どれだけがあなたが信じるような「リアル」、「真理」から来ているのだろうか。詰まるところ、あなたもまた、自身の想像力を働かせて物語を書き続ける小説家だったのではないか。

僕もまた、自分が嵩張らせてきた「ポエム」とファンタジーの山を直視せずに、そこを登ろうともしなかった身である。だがどうして、終いにはあなた自身が書いた「ポエム」を自嘲するように、「現実」を盲目的に追い求めるのか。

フィクションは、フィクションである。しかし、あなたとその他の誰かが共有している「現実世界」もまたフィクションならば、どのプロットに基づいて物語を紡ぎたいだろうか。あなたとわたし、共に「自分らしさ」を見出すのならば、そこで岐路が分かれると考える。

cultivate:地/知を耕すこと

 「研究には、早い段階からハビトゥスがあるとやりやすい」という大学教授の言葉がどことなく流れてきたが、それを見てどこか複雑な気持ちになった。 

 (個人的に見て)僕がやってきたことは結局何だったのかな、という気持ちと、それを受け入れてくれる人たちがその人を囲む環境にどれだけいるのか、という気持ちが混ざっている。

 ただ、業績の数と社会的なインパクトの度合いで自分の価値が見出されるのは、自分が望んでいたことではなかった。今いる場にこだわる必要もない。何かを学び、それを言葉として綴ることぐらいは、生活の中でも続けられるはず。

 ふと、農耕することと、文化的視野を拓いていくことのいずれもcultivateという語で言い表されることを思い出す。農作の収穫を蓄えることと、人間が文化的発展する上で知性を集合的に蓄積してきた路程が似ているのだろう。つまり、知性を啓くことと、日常生活の充足は、互いに地続きであるべきではないか。

 僕が修士終わった後、次の場がどこに移るかはわからないけど、自分の好奇心と自由を維持しながら、生きていければいい。周りの視線と流れに、自分が持っていかれないように。

小さな幸せを胸に

修士で院生になってからはや2年。この2年間にしても、結果的には研究者としてではなく、やたらと尖った読書家のような形で終わりそうではある。

けど、それはそれでいい。「研究している」のではなく、「勉強している」。元からそんなモチベーションでしかなかったのだろう。今の時点でも気づけたからいい。今後ともにそのような生き方だったとしても、悔いはない。

卒論の時からいろんな人に送って、何もフィードバックがないことが普通だった。正直、一瞥するまでもなかったという感想を、無言で伝えられているようで、自分で苦悶することが多かった。特記する点がない「つまらないもの」しか書けないのに研究をやってる人という認識をされているようでもあった。今思えば、恥ずかしい限りである。

その後も変わらなかった。その中でも、僕の拙い文と真摯に向き合ってくれていた存在は、確かにいた。添削をこれでもかと丁寧に指摘してくださった先輩方や、読者として真摯に読み込んでくれた方が一人や二人ぐらいはいた。

今思えば、それだけでも幸せすぎた。その小さな幸せの価値を見出せなかったが故に、杞憂や苦悩を募らせるばかりだったと思う。その数人の方に受けた恩は絶対に忘れない。これもまた教訓であり、今後の糧となるでしょう。

今度こそ平穏に生活していこうと思う。

英語

 「あいつら(=日本人)の苦手とするもので、圧倒的に差をつける」。「帰国子女だったとしても、そいつらに負けない」。そんな意気で身を粉にして続けてきたのが、英語の勉強。言うまでもなく、不純な動機である。結果は確かについてきた。手応えを感じるほどには。だけど、そんな捻くれた感情と他人との比較で自分が充足されるわけがなかった。

 小学校入ってから卒業するまで、クラスでは常にいじめられてばかりだった。当時の僕からすれば、「あいつら」の盲点を呵責なく攻撃できる材料を用意することが、その傷を少しでも早く修復させるための戦略だと考えていたのだろう。

 ところがどっこい。そうする中で、自分の内面に向き合うことが、全くもって抜けていた。それに気づくことなく、齢28となる年。全てがダメになった。お粗末ながらも、やり返すことが動機になると大概しくじるのだな、と今になって学んだ。

 そんな人間が何を書いたって、読み手から正当に評価されること、ましてやその存在自体に見向きされることはないのは当然だった。どのような声にしても、自分自身で清めきれなかった黒胆汁が迸るような尾の引き方をしている。あまりにも醜い。

∅(「自分」)

自分自身が学びつつも、思考を整理しているなかで「後を追わせてください」、「研究への姿勢尊敬します」、といった言葉に知らないうちに押しつぶされそうになっていた。まだなれていない自分の姿に、僕という人間が当てはめられていることへの罪悪感ばかりが募っていく一方だった。

言葉における〈仮面〉と〈顔〉の区別ができていなかった自分の咎ではある。とはいえ、そのような「すごい人」という形で表出された自分から、僕自身の存在は否応なしに疎外されていく。僕は焦る。苛立つ。そのような心の循環に、自分が回されていく。

洞穴の心に留まるものは日々なくなっていった。その代わり、そこにはひたすら肥えていくばかりの「すごい人」という虚像、〈僕〉という怪物が常に棲んでいた。誰も求めていなかた存在だったはずだ。なのに、僕の中でどんどん成長していく。僕も普通の人でしかないはずだったのに。

今後について

 (既知の方もいるかと思いますが)アカデミアにおける研究活動は、修士号取得をもって一旦止めることに決めました。理由は諸々ありますが、ここでは説明を割愛することにします。その後、仕事を見つけて働きながらになると思いますが、その傍らで「〈政治的なもの〉としての祝祭」というテーマについて探求できればと考えております。余暇の時間で深められたらと思います。簡単ながら暫時的な要点を。

【フォーカス】

1. 自由民主主義によって構成された社会における市民意識が、政治的な能動性・行為者性によって規定されているならば、なぜそれは排外主義的な言説やそのような政治団体の言動を許容したのだろうか。
2. またそのような普遍性に根ざした思想的基盤から乖離した、よりローカルな範囲における共通善を追求する市民意識が想起する「世界」とは何か。すなわち、そのような意識の集合的な主体となる「わたし(たち)」は、どのような「世界」において調和を求めているのだろうか。

【背景】

リベラリズムを擁護してきた国家・社会におけるポピュリズム、および極右政党の台頭。排外主義的な言説の流布によって、民主的な社会の構成における包摂の機能が不全状態とされている。
・しかし、そのような市民意識は現実と虚構の融即状況から構成されているものではないだろうか。すなわち、共同体の身内となる「友」とそのヨソにあたる「敵」のどちらも実在する〈かのように〉その構成員が認識している点を検証する必要があるのではないだろうか。



 このようなテーマの鍵言葉となるものについていくつかコメントも付記します。まず「祝祭」という語は、ヨゼフ・ピーパーに因んでいます。つまり、「自己が世界と調律する場」と一旦定義しています。また、この概念については『人間と聖なるもの』をはじめとしたカイヨワの著作も参照点としながら逐次検討していく予定です。

 そして〈政治的なもの〉について。基本的には、シュミット的な政治神学論を踏襲しながらも、一旦は人間が他者、およびその集合的な総体としての共同体に参加するための条件として想起することにしたいと思います。また、そこにおける「人間」についても、カッシーラーに倣って「シンボルを操る動物」という了解のもと絞り込みたいと考えています。

 総じて、擬制(フィクション)の論点を追究することによって、「あれかこれか」という二元性に基づいた従来の了解とは異なった共同体論、そして民主主義社会における社会的包摂論の可能性を拓けると考えています。グロテスクなもの、そしてホラーとしての「あいつら」を現前にして、「わたしたち」の認識・感情は象られています。また、そのような情念が集合的に生成されることによって形成される世界のあり方はフィクティブな構成をしているものだと考えています。

 長くなりましたが、このような方向で今後ともゆっくりながら歩み続けられればと思います。