2021-12-01から1ヶ月間の記事一覧

言語、その有機性について

私たちは、つい言語を「介して」人と人が対話するものだと考えがちである。だが、その前に私たちは言語とその主体を関連付けているのである。まず、構造主義的な観点から見ると、言語活動は差異と同一性の弁証法的な相関性に基づくとされる。 [J]'identifie …

ただひたすら本に恵まれた一年:写真と共に振り返る

今年は、昨年以上に哲学思想の書籍を読み漁った年となりました。そのような、数多とある哲学思想を中止とした良書との巡り合いを通して、自分が今後研究していく上での構想を象る3座標ができました。1)認識(Thought, Knowledge)2)言語(Language)3…

今年の振り返り:学術的に辿ってみる。

この年は、やっと5年半(!)通い続けた某W大学から9月に卒業した記念碑的な時期となった。そんな僕の頭の中を構成する興味ごと、学術的な探究心の様相もまた変わっていったので、今回はそれを四半期ごとに追ってみるとする。 【1月〜3月】 ひたすら卒論の…

「言語資本主義」:思想の消費社会

先進国において民主政治の基盤が、資本主義の傘下に置かれるという状況の下、我々は現代という時を生きている。すなわち、消費という行為が我々の精神を侵食し、物質化する時代を生きていると言えるだろう。とりわけ、「言語」という我々が意思疎通…

either/or:「第三者」がいない社会

私が見る限り、近年の政治・社会空間は専ら「多数派か、少数派か」という二分法に敢えて則る形で、社会と個人の様相を形容しようとするようになった。更に踏み込んだ言い方をすると、そのどちらにもなれない「第三者たる存在」が排除される社会構図が、今日…

Writing, or the Will to Madness

*日本語による意訳・概要は英文の下に続きます。 The very essence of writing, whether it be based on fictional or factual discourse, is a nihilistic endorsement of human intelligence. That is, one should not presuppose his text be understood…

浮遊する言語:「母国語」と「外国語」に境界線は存在するのか

もし、「日本人であること」がこの国・社会で通用する規範や共通認識を「空気を読む」ことで(非言語的に)理解できる人たちのことだとしたら、僕は「日本人」じゃない、というかなるためのハードルが未だに高すぎる。韓国で生まれてすぐに日本に住み始めて…