「言語資本主義」:思想の消費社会

先進国において民主政治の基盤が、資本主義の傘下に置かれるという状況の下、我々は現代という時を生きている。すなわち、消費という行為が我々の精神を侵食し、物質化する時代を生きていると言えるだろう。

とりわけ、「言語」という我々が意思疎通の手段として用いるはずのものが、イデオロギーや、政治的スローガンを売り込む(marketing)ために「資本」として利用される(capital-ization)ことが顕著になってきた。このように、政治の言語(the language of politics)という「商品」が大量に生産され、消費されていく社会を、ここでは言語資本主義(linguistic capitalism)と呼ぶことにする。

例えば、昨年ごろに世界規模の運動となったBlack Lives Matter. これを象徴的な標語として捉えたとき、これに対して'All Lives Matter'と'反駁することをタブー視することが、当該の人権運動に関する言論における前提となっていたように思える。

歪な見方ではあるが、もしこれが "Black Lives Should Matter So (that) All Lives Matter'"というスローガンだったらどういう世論になってたのだろうか。兎にも角にも、このような前提は、「現実」と切り離された反実仮想なのは自明的である。端的に言って、流布のしやすさ考えたらこれは大衆社会のあり方にそぐわないからである。

殊更深刻なのは、今時、言論と世論の区分もあまり意味ないものとなってしまったことだと思われる。というのも、思想もまた消費されるための商品になっているからだ。大衆が思想市場(the market of ideas)で自分の生活の日用品になりうるものをどんどん買っていく。このように、自分の既成の世界観にあった思想にだけ影響されることを好むのが思想消費(ideological consumption)のあり方だと言える。

この言論の唯物化の根源は、Lippmann (1925)の時代の時にすでに言及されている。

'[H]e cannot know all about everything all the time, and while he is watching one thing a thousand others undergo great changes. unless he can discover some rational ground for fixing his attention where it will do the most good, and in a way that suits his inherently amateurish equipment, he will be as bewildered as a puppy trying to lick three bones at once' (p. 15)


資本主義的な生活の加速化が、個人の知的活動の様相にも影響を及ぼすことについての言及である。この言質が記されてから一世紀近く経とうとしている今、それは依然と変わらないどころか、この現象はさらに浸透するようになったと思われる。

現に、我々の日常生活の別次元的な基盤となったSNSは、そういう意味で「爆買い」しやすい売り場だ。だが、そのぶん不良品や偽造品も流通しやすい。それでも、「消費者センター」たる仲介者はそこに存在しない。だから皆その場でお互いにクレームをぶつけ合う。オリジナルが不在する中、その模倣のみが存在する言語世界が、ボードリヤールが提唱するところの消費社会の足台となる。

さらに、この思想市場において取引されるもののより一般的な例として、優劣の概念がある。すなわち、偏差値、内申点/GPA、収入や業績など、数値化に基づいた「エヴィデンス」が諸個人間の能力主義的な分業(meritocratic division of labor)を促進することについて言及しなければならない。この流れにおいて人々の精神活動を数量化することで、集団的な管理を可能とし、個人の人生に多大なる社会的影響をもたらす。

詰まるところ、あらゆる事象・事物を数字にすれば合理的に判断ができるという言説は極めて「神話的」で、その意味と立証性は絶対的ではない。にもかかわらず、そのようなエピステーメーは、それを構築して制度化する社会と、それに迎合する生活様式を無自覚に生きる市民の両者によって双方向に強化されていく。そこから派生する優劣の考え方が、数字という記号に置き換えられること、即ち換喩的に機能する例は他にも数多とある。

その中の一つが、高度に発達した資本主義社会における学校教育のあり方だと思われる。生徒にはありとあらゆるテストを課され、その成果をもとに知能の上下関係を組み立てていく。そんな生徒は、その数字に騙されるくらいには無垢である。そして、知能競争を勝ち抜いて、生存することを刷り込まれる。我々は、このようなダーウィン主義的な「社会淘汰」の時代を生きているのだ。

総じて、言語資本主義においては、メッセージがいかに多くの人伝わるかが大事になって、その「内容」が正確に伝わるかは重要度において二次的な位置になりやすい。社会の大衆化が進むにつれて、言語と思想はより一層、この象徴的経済の資本としてその姿を変容させる。そして、言論が「定量的」になって、その「定性的」意義が損なわれていく。反知性主義の原理では説明しきれない現象が、先進国社会を震源地として発生している。

知性は従来のパラダイムの中で「劣化」したのではない。むしろ、人間の精神生活の糧であったものが、物質世界の「モノ」という全くの別物となったのだ。精神の物象化は、「考える葦」という人間の比喩的な存在状態を、そのままな意味で「植物人間状態」に至らしめてしまう。

そして優劣の概念のように、今や社会的に構成されたものに等しい考え方が、人間の「本能」として我々の意識に刷り込まれていることは珍しくない。「神話」に操られながら、恰も科学的に思考を巡らせてるかのごとく立ち振る舞う、この虚栄心と我々はどのように付き合っていくべきだろうか。兎も角、我々が自らの精神の死を自覚しない限り、この「昏睡状態」は恒常的に続いていくだろう。

 

引用:

Lippman, W. (1925). The Phantom Public.