「資本」の社会学:ソーシャル・キャピタルの多様化に伴う「資本の順序化」について

1. 社会=生命資本

 一部の外国人(あるいは「非日本人」)が犯罪行為を犯して、それがパターン化されたとき、警察の中である種のバイアスが生じるのは必然的だとする。それを鑑みると、警察を現地人の生活を守る国家権力としたら外国人はある意味(彼らの視点からして)侵入者なのだろう。人種的なステレオタイプがいくら部分的には「事実」だとしても、そのゲートキーピングが過剰に機能すると、生活を脅かされてるのは「現地人」ではなく、当の「外国人」となる。

 このように「生」と「死」が社会的にふるいわけられる仕組み、あるいは「適合しうるもの」と「適合し得ないもの」の基準線として民族的な単一性が機能する側面もある。国民国家における社会=生命資本(socio-biocapital)は、そのような「聖域」としての同質社会の構造を守るための「切符」でもある。社会正義を促進・成就させる理由があるとすれば、そのような「資本」のより公正な全体への再分配を試みることがその一つとして考えることができよう。

2. 包摂資本

 しかし、そのような社会正義に基づく反差別言説は、経済的な格差もさながら精神疾患への偏見や差別に関してほとんど言及がないように思われる。アイデンティティーの交差性(intersectionality)が認知され始めた近年においても、いまだに精神疾患が加味される余地が見える気配もなく、終始ずっと周縁化されたままな現状である。ゆえに、僕が異議を唱える社会正義は、このような包摂理論にもボーダーがあるという基本的な認識が欠如した状態のものを指す。

 また、多様性にしてもそれ自体がすでに「パンドラの箱」である事実を黙秘したところで、今度は包摂されるものと、されないものの間での「包摂資本」の格差が生じるだけだ。そもそも、このボーダー自体、この文脈においての本質主義的な社会的存在様式(ジェンダー、人種、宗教といったもの)に基づいた恣意的なものではないか。

3. 諸資本間の抗争時代

 精神疾患も、現代(とりわけ1960年代以降)になってこれらのカテゴリーとほぼ同時期に系統的な理論化が図られたものの、その学術的意義について検討しようとする公な関心の的になることは滅多にない。それには、社会正義を促進する側と抗う側の両者ともに「抽象的世界」を深淵な部分まで理解するだけのリテラシーが低下していることに起因する側面があると思われる。

 原則として、ジェンダーセクシュアリティ生殖器から、人種・民族研究は生き血・パスポートから、また宗教なら聖典から系統的な理論の樹を概念的に育てるための象徴的な「種子」(symbolic seed)がある。一方、精神疾患はそのような「象徴物」が欠如したまま理論が進められるため、観念的/形而上的だからという理由で捨象されやすいのではと考えられる。

 また、それぞれのアジェンダにおいて、公的に産出しうる言説の多さ、およびその繁殖能力(the capacity to proliferate)は、従来の共通認識(あるいは社会のパラダイム)の変革に参加する上で、影響力(leverage)を及ぼす波及範囲も措定する。すると、今度は実証的に議論しうるアジェンダと、そのための顕著性(salience)を有しないアジェンダ間で、言説の保有量における格差が現れるようになる。

 仮に、この推論が真だとすれば、社会的に構築された現実としての「ジェンダー・人種・宗教」が過剰なまでにその実証可能性があると信奉されている一方、精神疾患に関するそれはいまだに後進的であることが窺える。このような状況における資本の序列化(the order of capitals)は、身体的なものに纏わるものを核とし、精神的なものを疎外することによって不均等に成立する。そのような社会環境において、精神疾患への理解と意識を促進する啓蒙的な活動は功を奏するのだろうか。もし、この認識上の格差(epistemic gap)が是正されるような潮流が生まれない限り、私は極めて懐疑的な立場を取り続けるだろう。