専門知の「世界化」

 学際的という言葉はしばしば英語で、interdisciplinaryと訳される。これに別の言い方を充てるとすれば、「相互規律的」(inter-disciplinary) となるだろう。なぜなら、そうすることによって、学問は各領域の固有性 (les caractères vernaculaires dans chaque domaine) を維持しつつ、他分野との融和しうる部分を見出すことによって、その知の枠組み (l'épistémè) を新たに基礎付けること (fonder) ができるからである。

 つまり、一つの専門の中で循環が成立するような世界観では、その学問は内なる破局 (catastrophe intime) を迎えてしまう。これもまた個人的な見解ではあるのだが、そのような閉塞感は、とりわけ哲学のような分野に著しいように感じる (l'impasse philosophique, autrement dit la dogmatisme)。その一因として、定量的に蓄積した成果としての「知識」(savoir)だけでは、「知っている」以上のことは語り難くなりやすくなりやすいことが考えれる。

 これもまた狭い範疇を前提とした言質となってしまうが、文脈に沿った厳密な解釈と理解を重要視するこの学問にある程度携わると、少なくとも「あの時」と「この時」の二つの時制の軛(la finitude dérivant à la dualisme temporelle entre le présent et le passé)に括り付けられた認識にはまりやすい。これはむしろ諸刃の剣として捉えられるのが無難なのだが、それが凶と出た時には、諸事象の細かい含蓄を蹂躙した哲学的な還元主義を正当化してしまう虞が生じる。

 その上、そのような過去に習得した知の蓄えだけでは、未知なる事物、別の言い方すれば来たる知('le savoir à venir')がその人の世界観を揺らがすことへの覚悟(readiness)と必ずしも結びつかない。ゆえに、哲学がその普遍性を過度に信じれば信じるほどに、その包括性は部分的なものでしかなくなってしまう傾向があるように思える (l'universalisme particulière)。

 哲学に限らず、自閉的な空間 (l'espace autistique) となった学問のあり方はその創造的な進化 (l'évolution créative) の歴史を継承するに当たって致命的である。この危険性を逓減するには、「相互規律的な学際性」が求められるのだ。そのような基盤を強固にするには各自が合理的な想像力('rational imagination' chez Whitehead, 1929)を働かせる必要がある。

 すなわち、「ハイパーテキスト的な」知性 (l'intelligence hyper-textuelle) を創造する力がこれなのだが、複眼的な視点で自らの理性を駆使する力である。従来の専門知のあり方を踏襲しながらも、同時に「総合知」(le savoir agrégée) の構築、または「知のグローバル化」(la mondialisation du savoir) を試みることで、学問、とりわけ哲学はその生命力を取り戻すことができるだろう。