言語、その有機性について

私たちは、つい言語を「介して」人と人が対話するものだと考えがちである。だが、その前に私たちは言語とその主体を関連付けているのである。

まず、構造主義的な観点から見ると、言語活動は差異と同一性の弁証法的な相関性に基づくとされる。

[J]'identifie un fragment de langage dans son sens, cela signifie très exactement que je le différencie de tout le reste du langage.

(Marin, 1994, p.17)


だが、このようなソシュールによる言語学的理解にあるように、ランガージュはそれぞれの間に差異の境界線を引くだけの「指標」に留まる程度のものなのだろうか。また、社会学的な観点から見れば、言語をE・デュルケームが考案した社会的事実 (social fact)として還元されるのは必然的なのか。

私は、言語は、そのような構造主義的な理解を超越していると考える。即ち、言語も人間と同様に「存在者」であると。これは、ハイデガーがいうところの言語があらゆる存在体の「家」であるという命題とも呼応する。

[S]omething is only where the appropriate and therefore competent word names a thing as being, and so establishes the given being as a being. .... The being of anything that is resides in the world. Therefore this statement holds true: Language is the house of Being.

(Heidegger, 1971, p.63)

 

これは、言語によって「名付けられること」で、その存在体は固有のアイデンティティーを持つことができるようになることを、意味する。その意味では、言葉はその存在体に特異性を与える能力があると言えよう。

そもそも、道具としての言葉という伝統的な見方では、なぜ言語表現から人間はその感性を刺激されるのか、そしてなぜそれが我々の心の中に表象された形で残るのかを説明するのに限界がある。

ハーバーマスのような伝達モデル (cf. 1984) を思い浮かべても良いだろう。だが、それに基づいても、言葉はただ、両者が同意に至るための手段だという機械的な観点では、詩や小説などの言葉を用いた芸術の存在意義を説明することはできない。

ソシュールによる構造言語学的な観点は、言葉そのものの解体図を示すことはできても、それが私たちの精神にどのような作用をもたらすのかを説明するには理論的な制約が多い。そのような問題点を踏まえると、言葉が人間のように「生きている」と考えること、いわば現象学的な立場から言葉の性質を解釈する必然性は生まれてくる。

つまり、言葉が人の思考、認識、イメージ、心理等をどのように「表象する」かを理解するためには、言葉の中に埋没していた「人間性」を再び露わにする方向性でそれを考察する必要性がある。言葉も「生命」を宿した人間であるという、一見不自然な見解は、むしろ言葉にとって「本来的な(authentic)」存在の仕方なのである。

 

<引用文献>

Heidegger, M. (1971). On the way to language. HarperCollins Publishers.

Marin, L. (1994). De la représentation. Seuil.

 

<参考文献>

Habermas, J. (1984). The theory of communicative action: Reason and the rationalization of society (Vol. 1). Beacon press.