'Photographing' Curiosities : 好奇心を「撮る」

 将来は外交官か新聞記者。政治と国際関係論を専ら学んで、他の学問には目もくれない。理数系なんて一生かかっても無理、絶対触れないでいたい。もし、そんな自分が、認識論、一般言語学、人類学、美学や科学思想をやってる今の自分の姿見たらなんて思うんだろう。

 それはさておき。「嫌いを好きに」するような教育観を、ある種の美徳だとする一般的な見方の裏には、「少しでもできることが多いといいよね」、という常識的な考え方があると思う。つまり、何かしらの好奇心が、実務的なスキルアップ効果をもたらすのは当然の帰結だとする前提があるのかもしれない。だけど、本当にそうなのかな、と思う。

 後知恵という形で気づいたことだが、自分自身の「好き」の移り変わりに対して常に寛容でありたい。「あのとき」の好きが、今も好きであることも、「あのとき」の嫌いが、今も嫌いであることも、絶対的に保証されていないのだから。必ずしもやりたいことを「好き/嫌い」を意識した上で峻別する必要もない。また、それを「できる/できない」の狭間で打算的に考える必要ない。後付の評価が、それに先行する感性を淘汰してしまったら、何かしら関心を抱くために常に力んでいないとならなくなるだろうから。

 少し小難しい言葉で一般化すると、次のようになる。教育というものがもし個人の有機的な生を涵養するもの('education')と、その(社会における)機械的な生を構築するもの('pedagogy')に峻別できるなら、諸個人の主体性を育むのは前者('educational learning')だと考える。なぜなら、後者('pedagogic learning')は、フランスの哲学者、ルイ・アルチュセールによる「国家装置」としての教育として考えられるからだ。つまり、〈法〉に基づいた規律化による「教育」は、個がその〈主体〉的生に対する自決権を生成し、その〈ナルシズム的〉な存在了解を促す「教育」と袂を分かつのである。

 概して言えば、「好き嫌い」と「できる/できない」の価値判断を絶対的に連関させる考え方は、機械的な生を構築するための教育の産物である。そのような知性の育成を支える理念とは裏腹に、現実には「無理、大嫌い」だったものが、実は自分の思考軸と親和性が高くて、つかの間にその世界観の核心を担っているような、偶発性に見舞われた上で知性が育まれていく場合のほうが多いと思う。「好き」に囚われることもなく、「嫌い」に囚われることもない。一旦、そこに「できるか/できないか」の成果主義は保留しておいて、自分の好奇心のアルバムに収める「写真」になるような知的な感動、驚きやひらめきを「撮り続ける」ような知的探究をしたいな、と思う。