トラバドール的な思惟

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(写真はフェデリコ・エンリケスの著作。エンリケスは、ピアジェの『発生的認識論序説』の第一巻の冒頭でも言及されている20世紀初頭のイタリアの数学者です。)

夜中散歩しながら色々変なこと考えてしまいますね。まあ、そんな自分だから座りが良いのかもしれないですが。以下は、そんな自分がいつもぼーっと考えてることの一部です。

【表象理論】

イメージ(≒表象)の規範的な姿、そこから逸脱したアブノーマルな姿(とはいっても規範の中にある)、果てはそんな囲いが壊れたような、天井と底がない散逸した姿について。生物の形態学とか、物理学での散逸構造ちゃんと勉強したくなる。

【政治哲学】

(一般市民とかの)規範的な生での共通善と、(暴力団など)逸脱した生での共通善との間の対立とその定性的な姿について。2つ(あるいはそれ以上)のコミュニティー同士の価値観の衝突について政治哲学、あるいはヘーゲル弁証法の観点から掘り下げたい。

【科学哲学】

科学の多義性について。その中に内在する多元性に目を向けないまま、近現代以降に形成された科学的世界観、そのあまりにも西洋的な「科学」の姿を無批判に受容するのは、認識の次元においての植民化を正当化することに等しい。だからこそ、Kuhnのパラダイム、その魁のLudwik Fleckの思考集団は再検討の余地がある。一部の科学的な思考集団、特定のパラダイムの普遍化がモダニティの変容とともに何をもたらしたのかを改めて精査しなければならない。

ナショナリズム

「日本人らしさ」について。これは近現代の合理性に迎合するかのように生まれた虚偽意識に親しいように思える。もし、日本人らしさが実態的だとするなら、その本質の在処はそもそも無特徴なものだろう。故に、「日本人であること」は、思弁的な言語としての哲学からも、立証性の言語である科学からも「語り得ない」はずなのである。