神話と象徴が作る世界を生きる私たち

一つの思弁的な構築だったものが、科学技術の進歩とともに急速に拡散される。そして、その思考様式は集合的に模倣されることで、大きな共同体を構築する。

ナショナリズム研究において、そのようなとある媒体を通した共同体の構築とその沿革を探求することは第一の目標だといえよう。とりわけ、このような観点を、印刷技術の発明に焦点を定めたのが、ベネディクト・アンダーソンの方向性だった。

印刷技術が発明されたヨーロッパは、言うまでもなくキリスト教文化圏である。また、グーテンベルクの功績によって、そして当時の知識人の教養の要であったラテン語から地方の言葉 (vernacular) で書かれたことによって、教会による独占的な解釈、及び牧会的権力の象徴であった聖書は、またたく間に民衆の間に広まっていった。

一般的に、ナショナルな共同体を基礎づける要素として、神話と象徴は常に考慮される。また、神話と象徴は「言葉と権力」そのものである。なぜならば、言語的構築に基づく知識(savoir)が、自己の世界観(「わたし(・たち)」)を象るからである。同時に、それは他者(「かれ/かのじょ(・たち)」への認識、働きかけ方を定める力(pouvoir)として作用する。

アンダーソンの理論を更に抽象化すると、次のようになるだろう。神話と象徴は、<self/other↔we/they>という自他の境界線と領域の排他性を基礎づける知識・力として作用する。自分とは何者か、という問に対して、その答えを非−自己的なものに求めるのが我々である。

また、神話と象徴は、同時に<self↔other>↔<we↔they>という、自集団中心的な世界の斉一化を促進するための要素でもある。奇妙なことに、個人としては自己を他に存在しようがない、特権的なものとしながらも、考え方や感情に関しては、他者との同質性を要求するのである。

つまり、存在論的な差異化と、認識論的な同一化を同時に推し進めるのが、神話と象徴の力である。それが作用する「場 field」となるのは、人と人との間の関係性である。いわば、ばらばらに存在していた諸個人を材料に、一つのまとまった総体を作り上げ、それをナショナルな空間、あるいは特定の支配言説が機能する特殊な社会空間に変容させるのが神話と象徴だと考えられる。

総じて、ここで述べた神話・象徴は、権力の性質を国家と諸個人の間の関係性に求めた、フーコーの考察とも親和性があると考える。また、その支配関係を全体化する媒体は、印刷技術に限らないだろう。現代ならテレビや新聞、そしてSNSも、権力、及び諸個人を管理・監視するためのシステムを高次元に強化するための媒体として考えられる。

神話や象徴は、決しておとぎ話だけに結びつくものではない。むしろ、そのような思弁的な産物は、現代人の世界観を基礎づける思考様式そのものなのである。