「思弁的人類学」を構想していく上で


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 最近は言語学社会学、人類学の文献も読み合わせています。僕が構想する「認識論」は、どちらかというと、そのような学術背景を踏まえたマクロなものだと思います。

 故に、このアプローチを、一旦ではありますが「思弁的人類学(Speculative Anthropogy)」と呼ぶことにしています。基、カントによる〈人間学〉(Anthropology)への応答としての意味を込めて「思弁的」としています。

 ですが、近年、新実在論の旗手的な人物であるカンタン・メイヤスーらによる思弁的唯物論に違和感を覚え、それにも応答できるものとして〈認識論〉を概念化してみたいと思います。とはいえ、これは博士課程に進めたら取り組むテーマです。まだまだ文献の読み込みが足りておらず、とても今の時点で形にできる構想ではありません。

 まず最初は、フーコー的な視座から臨床的な眼差しを象る「認識」を批判分析することから始めたいと思います。そしてフーコーの論旨に相反するピアジェの発生的認識論の立場も加味した上で、人間の主体の「有機性」の余地を考慮した発展的な論考を編み出す。そして、ベイトソン複雑系理論に基づいた人類学的見識を援用することで、人間精神の「異常性」の議論をアップデートさせる。修士課程における研究の肝はここにあると負います。

 総じて、修士においては精神医学の哲学を、博士課程はそれと僕がおぼろげに考えている段階の「思弁的人類学」とで接合させる術を見つけ、理論的な発展の道を模索していくことにしたいです。