気に食わない相手を「先生にチクる」のはなぜか

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 異なる主張同士の解決を言論で解決するのは自明的だと思うが、最近は、相手の所属先に抗議するような形で間接的な「暴力」を行使するようになった。つまり、表現の自由戦士を揶揄する以前に、自身が「権力」に癒着する形で言論への反自由を経由した特権を享受していることに気づいていない。

 というより、意見が異なる相手との平和的な解決に関心を示していない場合が殆どであろう。むしろ、第三者的に居座る「象徴的な」大他者に「チクる」ことで、自分の代わりに「暴力的に」相手を壊すことに、関心があるのではないか。今どきの言論は、そのように婉曲的な姿のサディズムによって形容できるものになってしまった。

 ところで、「いーけないんだ、いけないんだ!せんせーに、いーちゃお!」という幼少期のいじり方は、成人したあともなお、より高度な(はたまた神話的な)暴力として温存され続ける。同時に、「せんせー」と「権力」が奇しくも類似してしまう、といったらやや「陰謀論的」なものになるだろう。

 だが、その「せんせー」は象徴的暴力を(「生徒」の成長過程において最初という意味で)原初的な形で振るう最初の存在である。学校教育は、社会化を歩む上での「暴力の洗礼」の場なのかもしれない。そして、これらを裏付ける無意識が「親子関係」ではなく、工場として機械的に反復されるものなら、教育制度はそのマニュアルとして「創られた伝統」に相当するだろう。

 話を戻せば、言論の対立と、その解決策の求め方が「教えられたとおりに」機能することは何も無関係ではない。家庭、学校、友人…そして社会と、人間は「成長」を通して、元の所属を残しつつも、より高次元な所属意識も形成していく。ただ、その根源に位置するのは、幼少期の「しつけ」や「戒め」である。しつけられたとおりに、戒められたとおりに、「わたし」は相手に接すればいい。そのような無意識も、同じく並列している。

 このように、「成長していく」のは個人だけではない。その各個人が内包する「しつけられたこと」、「戒められたこと」も順応しながら「成長」するのである。それらの規範的な言動を基礎付ける無意識も、フロイトラカン的なものか、あるいはドゥルーズガタリ的なものかの「いずれか」の話でもないように思える。むしろ、それらは人間の無意識の二階構造的を構成する、異なる次元のようなものであろう。