二都物語

無批判な主体は既に、僕の中の無意識に埋没していた。けど、それは哲学の営みで消滅し、代わりに新しい「批判的な主体」が生成される。だけど、その主体も、現前していた頃から段々と無意識に埋没していくという意味では、それもまた消滅する。それをまた現前させて壊して、生成して…の反復。

何を言いたいかというと、哲学ってなんやねんということについて。哲学の門を叩く前までは、その中に実践的なものの存在があるわけないと思っていた。だけど、いざ学び始めると、かなり実践的ないとなみである。

これは、言葉、外国語を学ぶ感覚と似てる。英語を学んだ当初、喋るときはそれこそ頭の中で英語と日本語を行き来する形で「翻訳」していたが、慣れていくうちに、その意識は消滅していく。それでフランス語を始めると、また別のパラダイムで「翻訳しながら」言葉と関わる意識は再び現前する。

その意味で言うと、恐らく社会科学一辺倒だった頃の自分にはもう戻れないと思う。哲学に対して無垢だった自分は帰ってこない。少なくとも、昔の自分ならフーコーデリダドゥルーズの名前を聞いたことがなくても生きていけるような環境で十分だった。今やこの三者を耳にしない日はない。

結果、C. P. スノウ的な「2つの文化」というよりは、それこそディケンズ的な「2つの都市の物語」に近い感覚を抱いている。僕にとって、哲学と政治・社会学を始めとした社会科学はそんな形の関係性。