想念が狂気を創る

「理想の社会」のあり方を語る上で、「ふつう」であることの「正しさ」を無批判に強固なものにするばかりではないか。

端的に言えば、「狂気」を語らずに「理性(的なもの一般)」について何を語れるんだ?と思うところだ。前者を見てみぬふりをする体裁で、哲学的見地から政治や社会、文化や芸術を見るにしても、啓蒙思想の二番煎じにしかならない。

現代の虚構性は、進歩主義的な歴史観を盲目的に信奉して、「私たち」の価値観は、近代以前の先人たちと全く違うと隔絶するところにあると常々思う。必ずしもラトゥールを意識しているわけではないが、«Nous n'avons jamais été modernes»を今一度命題として再考する必要があるだろう。

つまり、【「近代」/「現代」】というより、むしろ【「近代」・「現代」】という一つのまとまった括りの中を、果たして「私たち」は生きている、あるいは生きてきたと断言できるのかについては、懐疑的に考えたくなるところです。だからこそ、想念、擬制としての「今・ここ」ないが。

この【「近代」・「現代」】の中を生きるとされている私たちの複雑な動向は、健康とその規範的な姿をめぐる認識の中に著しく表れていると考える。今日、「メンタルヘルス」への啓発をこれだけ進めながら、未だに偏見が根強い現代だからこそ、「ヒステリア」とは結局何だったのか、と再度問い直す必要があるのではないか。

クレペリン以降の精神病理の分類学、戦後の反精神医学の流れを吟味し、評価することも大事だが、その臨床知の誕生期はどのような世相だったのか、そしてその時期の病理的なものに対する社会的意識の形象はより深く探究されてもよいはずだ。

まず、前提として主体の想像が入らない「眼差し」は、成立し得ない。それは「狂気」、「異常者」に対してもそうである。あらゆるバイアス、ステレオタイプを考えるとなると、私たちは意図せずとも「眼で見る」世界に埋没していく。

しかし、そういった傾向は避けられないにしても、視覚に重きを置いた西洋的価値観、とりわけ客観性の話になると、自己欺瞞も念頭に置いて考える必要はあるだろう。これに関して、精神医学において、用いられてきた患者写真が物語ることは多い。

今となっては、眼差しの写実性に対する懐疑主義的な姿勢は、ごく普通とはなった。とはいえ、専門知の形成において〈中心〉を占めているのは西洋のままなので、それに由来するような視覚中心主義もまた根強いように思える。ヒステリアの表象も例外ではないだろう。

長くなったが、以上が最近の探究と関心のテーマだ。「精神疾患の哲学」と言っていた頃は、自分でもそのあり方がいまいちわかってなくて、ヤケクソになっていたときがあった。それでも、しぶとくコツコツと文献を読み進めたら、より具体化されて、モチベーションも取り返せるようになった。ありきたりだが、研究で根性も大事だと痛感した。