「正気」と「狂気」の狭間で


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「正気」と「狂気」の狭間。それは、「健常な」個人を規範的に工作し、「異常な」個人を無下に周縁化する規律空間としての社会への僕の反抗心を示している。

「健常者」であることによって見えない世界も広ければ、逆に「異常者」であるがゆえに見える世界も広い。だが、その逆もまた、「当然ながら」両者ともに広い。ゆえに、件の反骨精神は、どこまで及んでいるのかは、自分自身でも分かっていないところである。

また、「健常者」はその社会に暮らす他者たちとの「ふつうな」対話ができる。それだけでなく、自己という「他者」との「健康的な」対話もできる。ところが、「異常者」は同じ社会に暮らしていても、周縁化されやすいことで他者との対話は「おかしくなる」。また、「他者としての自己」(soi-même comme l'autre)との対話も、「病理的な」ものになってしまう。

話を戻すと、「健常者性」とは、「健全な自己」と、「健全な他者」との同質的なコミュニケーションによって基礎付けられた社会的な生を象る様相の一部である。また、他方でその「健全な自己」は「健全な」「他者としての自己」との「健康的な対話」を営めるだけの恒常性(ホメオスタシス)の中を生きているといえよう。

それに対して、「異常者性」とは、「病理的な自己」と、「健全な他者」、及び「病理的な他者」とのコミュニケーションの間に不協和音が響いている状況の中で措定された実存的な危機を基礎付けるものである。同様に、その「病理的な自己」は「病理的な」「他者としての自己」とも「病理的な対話」を続けていくために、その分裂性を常に抱えてしまうのである。

概して、人間の主体は、「正気」と「狂気」の双方に揺れ動く振り子のようなものである。ゆえに、その理性もまた、流動的に変容していく。それを踏まえた上で結論を述べると、人間を「まとも」/「おかしい」、あるいは「正常/異常」の二元論に則って形容するのは極めて難しい。その有機的な生を描写する上で、そのような軸を絶対視してしまったら、人間の姿の実相は描写し難い。

すなわち、「二項対立」は、本来は座標平面的な姿をしている人間の生態を考慮する上で、その基本構造が4つの象限で成立していること、及びそれぞれの象限同士の相互作用を規定する「逆、裏、対偶」の関係の2つを捨象してしまう虞がある。少なくとも、慎重な熟議、価値判断を踏まえるのが民主主義的な社会の意識のあり方ならば、人間の「健常性」と「異常性」の差異の間に広がる複雑系を真摯に考慮して然るべきと考える。