「眼差しの格差」:オリ・パラの事例を通して

オリンピック・パラリンピック(以下オリ・パラと略)の気味悪さは気のせいだろうか。私が思うに、オリ・パラの実態は以下の通りだ。健常者による障害者の「他者化」が儀式的に執り成されてる場としてのパラリンピック。そこは身体障害をスペクタクル化し、知的・精神障害は非可視化されて然るべきものという認識を再確認する場でもある。もしこの祭典が、見せかけの包摂によって障害者という〈他者〉の排斥を正当化する「儀礼」でしかないならば、果たしてこの「伝統」を継承する意味とはなんだろうか。

ちょっと分かりづらかった方のために、先の文を少し噛み砕いてみる。例えば、成人式。これは子供だった人が、「あなた大人になったね」と同年代を認め合う通過儀礼である。同様に、だが少し違う形で、このオリ・パラも健常者が障碍者を「否定的に認めるため」の通過儀礼として僕は見ている。つまり、健常者が障碍を負った選手、及び同様のバックグラウンドを抱える人々に対して「あなたはやっぱ健常者じゃないね」と烙印を押すための通過儀礼であると。

踏み絵のようだ、いや、公開処刑だろう。呼び方は幾通りとあるけれど、そこが重要じゃない。僕が言いたいのは、オリンピックの時とパラリンピックの時での「眼差しの格差」である。一概して、「眼差しの格差」とは、障碍者にもスポーツの門戸を開く「理念」のもと、パラリンピックを開くことで、身体障害と知的・精神障害との間で大衆の認識の差があるという「現実」がより強調されていくことを意味する。

これはどういうことか。一つに、殆どの観客は健常なスポーツ選手が活躍するオリンピックに熱狂しやすいのに対し、障碍を負ったスポーツ選手が競うパラリンピックにはその関心が希薄になってしまうことが考えられる。言い換えれば、スポーツ人口における多様性の尊重をいくら標榜しても、実体のない「理念」は競技の結果主義に固執する観客によって、その意味が薄れてしまう。

そもそも競技に参加しうるのは、障害を持ちながらも自らの意思で競う意欲を持ちうる身体障害者であり、活躍次第で彼らにも健常者並の待遇を受ける可能性はある。勿論、身体障害への差別や偏見は今も根強いままだ。だが、その一方で、知的・精神障害者にはそのような「挽回」の機会に恵まれることはまずない。端的に言えば、ただひたすら社会やコミュニティーから忌避される存在として扱われて、まともに理解されることなく、孤立していく場合が殆どである。

いわば、オリ・パラは排他的な二重構造を包含しているように思われる。即ち、一次的な段階として、健常者と〈異常者〉の間に境界線を引き、その二次的な段階として身体障害者と知的・精神障害者との間で健常者からの認知されやすさに基づいて境界線を引く。それをもとに、見た目では包摂的なシステムが、積極的な排他主義を促す装置に変質するのだ。故に、健常者が障碍者を飼いならすような主従関係が、我々の無意識にそのまま射影されるようになり、健常者が障碍者の活躍を「見守る」という父権制的な不平等性の二面的な問題点を孕むこととなる。

一重に言えば、パラリンピックは「気前の良いパノプティコン」としての一面があるような気がしてならない。それに対して、オリンピックは人間の健常性を前提とした上で、身体能力の側面から日常世界の頂点をめがけて競り合うような場であると僕は認識している。さらにいうと、この祭典を通して、「皆が普通である」という妄想が強固なものになっているように思える。

このように言われれば、これが倫理的な矛盾を合理的に無下にする「儀礼」だということが見えてくるかと思われる。だが、問題の核心は、その「なぜ」が問われないところにある。「障碍者」の差別は良くないとしながら、一方では「正直なところ、障碍者のことなんて知ったこっちゃないけど、多様性だからまあ形でも仲間にしてやるか」という健常者の傲慢さに内省的な「眼差し」を向けられるのか。ナイーヴな多様性を社会で促進すると、却って排他的で厳密な「他者化」を強固に制度化してしまう可能性を斟酌することが、より実態的な多様性の議論の根幹を成すのではないだろうか。