イデオロギーとしての「健常者性」

 現代人は己の理性が「健常」であることを信じて疑ってない。ちゃんといえば、「近代的な」現代人なのだ。自己に内在しうる異常性はほぼその認識の盲点に等しい。いわば、「おかしいやつ」は、たとえその人へのそのような印象が誤謬であったとしても、他人の中では「おかしいやつ」という認識でしか罷り通らない。憶測ではあるのだが、常識的世界におけるこのような規範的な認識は、それが根を下ろす社会が近代的であればあるほどに堅固なものになる傾向がある。

 転じて、そのような社会的な生の様相は各個人の「健常者性」が社会から暗黙に要求されていることを示していることも示している。また、そのような社会は、各個人をその自己と全体に対する責任の系統的なシステムに組み入れる。要するに、我々は、オートポイエーシス的(自己生産的)な意味で、社会的な主体としての公的な「わたし」と、各々の精神の生態を象る私的な「わたし」との間で存在論的な均衡感覚を生成することを、社会から恒常的に課されている。

 それに加え、個人という概念はそれ自体が健常者性を暗黙の了解とすることで成立するものといえる。そのような了解のもとで、現代社会はこの健常者的無意識を原動力として段々と諸個人の「機械化」を促進する。そして、個人は、その秩序を維持するための「装置」(学校、病院、家族、その他の社会的資本など)を通して、唯(’タダ’)の物(者)として「再生産」されていく。

 ところで、近年になって顕著な政治的傾向となっている進歩主義のあり方に対して、私は甚だしい違和感を覚えている。たとえ、「昔よりは今がマシ」は事実ではあっても、その裏付けが昔は「異常」で、今は「健常」という論理によるものならば、結局その思想が二元法による時点で旧時代的、あるいは伝統主義の焼き増しでしかないからだ。

 通俗的にいえば、我々が前進的とするものの見方は、政治的な営みの中での「正しさ」に基づく「新常識」から「再生産」されている。つまるところ、そのような「新常識」は、今もなお「異常者たち」を排斥して政治的・社会的な「衛生」を清く保つための「装置」なのだ。