ノマドロジー的認識論:基本的な構想、及びその発展性について

【「ノマドジー的認識論」とは何か】

『でも日本では「外国人だからこうだ」というキャラクターで理解して、その先の一人ひとりの違いを深く知ろうとしないことが多いように感じます。そういうキャラクターを当てはめられる側から書いたもの、作ったものが少ない気がするんです。』 (moment JOON)


 韓国から留学生として来日し、今は日本社会で暮らすラッパー・moment JOONさんによる言葉である。彼は自身を「移民」とすることで、既存の社会的カテゴリーでは形容しきれない自己の在り方を捉えているようだ。このように、「移民」という自己の形成の仕方があるじゃないか、というのも一理ある。

 しかし、それでも僕がなぜ自身を「ノマド的に」認識するのか。それは「移民」という語彙に含まれた自己の「定住性」が、僕の流動的なそれと齟齬するからである。その流動性の起源は、僕の言語に対する理解の仕方に顕著な形で現れている。すなわち、言語習得が「逆子状態」でなされることで、今の僕は日本語を「第一外国語」、英語を「第二外国語」として使えるようになった。それは、本来なら母国語として機能するはずだった韓国語が「死産した長子」のようなものであることも示唆する。

 少し具体的に見ると、僕が普段使う日本語、または英語に関しては、読み書きからスタートした上で、後で付随する形で話す訓練をした。とりわけ日本語でそうしたのも、幼少期には身の回りで日本語のネイティブがいなかったことが一番大きかった。韓国語できないのは今も昔も変わらない。故に、僕にとって(第一)外国語、第二外国語、…と連なる起点は依然として「非・日本人的」なままである。つまり、形式上では僕の言語アイデンティティーは「韓国人のまま」変わってないと言ってもいいだろう。そこに親和性が入ると話が変わるのは、先述の通りである。

 そこから、僕のロゴス中心主義(注1)への反動的な態度が生まれる。つまり、「話せなければ」言語能力があると見なさないとする一般的な認識に対して、「読み書き」から始めても「話せる」ようになるという逆の言語習得の仕方を突きつけるというカードがある。人間の主体を構成する要素として、言語が果たす役割が大きいことを加味すると、そのような「反・直感的な」言語体験を持つ僕の主体は必然的に流動的になる。その論拠として、デリダによる脱構築の概念を援用することも可能ではあるが、僕自身の見解は、フーコードゥルーズによるものが大きい。

 とりわけ、1. フーコーの「言葉と物」、「知の考古学」、2. ドゥルーズの「差異と反復」、そしてガタリとの合作である「千のプラトー」、3. グレゴリー・ベイトソンによる「精神の生態学」が挙げられる。まだ読み込みが深いとは言えないものの、とりわけその中でもドゥルーズの核心的な理論の一つとも言える、生成変化の概念から、個人の主体性に眼差しを向ける必要性などを感じるに至った。そこからまた、ベイトソンならではの複雑系に根ざした周囲世界へのより有機的な了解を得ることに重きを置く生態学的な認識論から得たヒントも数多とある。

 最終的に、そんな自分が学術探求の末行き着くのは、「ノマドジー的認識論」(l'épistémologie nomadologique)[注2]みたいなものだと考えられる。「あること」(être)から「なること」(devenir)を根幹にして、社会が一義的に定義する「人間理性」、「合理性」、「科学的であること」の諸様相を論考していくのだろう。すなわち、人間の認識が、その「あり方」を考察対象とするのではなく、それが恒常的に「なること(=生成変化)」を繰り返すことに注視する必然性があると考える。

 そのような学問のあり方を思い描くことで、私たち人間の一人一人の生への意識の仕方に潜む「内なる異質性」を炙り出すことができる。さらにこれを基にすれば、既存のパラダイム内の「変化」から、パラダイム自体の「変化」と、その変化したパラダイムの中での内なる「変化」の二重性へと、その視点を変えることで、人間世界の有機性をより精密に考察することが可能になると考える。では、その次にこのノマドジー的認識論の汎用例としてどのようなものがあるのかを見ていこう。

 

【〈映画的な〉眼差し】

 このような理論のもと、私が将来論考する対象にしようと思っているものに、「メタ・シネマ的表象」(meta-cinematic representation)、または〈映画的〉表象と想定しているものがある。つまり、この理論的探求の起点は個々の「映画作品」ではなく、映画を見ているという体験そのものである。結論から言うと、この文脈における「映画」とは、形而上学的な表現可能性を有する。故に、これを正確に言えば〈映画〉となる。〈映画〉とは、換喩的な表現で、後述の〈イメージ〉の概念と呼応する。

 この〈映画的〉表象の考えを元に、精神疾患に対する社会的な認識・理解の在り方を分析することができるとも考えている。例えば、「メンヘラ」という言葉。これは、「メンタルヘルス」を意味する省略法的な語彙である。しかし、そこには否定的な含蓄が込められている。心の不安定性、または本人自身がいつ精神疾患に罹るのかもわからず、私たちはなんの保証もなく実存的な安心感(existential security)に入り浸っている。その理由について、以下の通り仮説を立てている。

1)「目に見えない現象」であればある程に、その起点となる人物・事象を「全体的に」認識する。

2)その現象が否定的な明示性(connotation)を有する程に、我々のその人に対する嫌悪感もまた「全体的に」増幅する。

3)人間が抱く、「メンヘラな」他者への「全体的な嫌悪感」は、その人の一つ一つの言動や態度をもとに合理化する。さらに、それを元に人間は「健全な主体性を持っている」自己を強化させて、本人自身が「メンヘラ化」する可能性を矮小化する。

 あえて一般化すると映画を見るという行為は、五感をもとに形成される全体的な経験を象る。それと同様に、「メンヘラな人」の〈イメージ〉は、その主体的な行為者としての「他者」が〈映画的に〉認識されることで形成されるのである。

 

【世界、あるいは〈イメージ〉の総体】

 〈イメージ〉が、我々の「眼(≒脳)」の中で世界をみる「レンズ」として果たす役割は大きい。故に、その表象可能性を否定することは、我々の言葉が有する表現可能性も同様に否定することになる。なぜなら、我々の〈イメージ〉は、その言語能力によって予め「プログラミング」されることによって、その内容を定め、解明度も上げることができるからである。

 なお、この〈イメージ〉の種類はおよそ2つに分かれると考える。その一つが、先述した〈映画的〉表象(cinematic representation)なのだが、改めてこの文脈に則って簡潔に要約すると、精神病理という対象を3次元的に「撮ること」で形成される。それと相補的、または対照的なものとして考えられるのが写真的表象(photographic representation)である。ここでは詳しく述べることができなかったが、それは近いうちに書きまとめたいと思う。核心だけつまんで説明すると、これは身体病理を2次元的に「撮ること」で形成されるものである。

 では、これらの二つの形態の表象があると提言することでどのような理論的な応用の展望が見えてくるのか。もとい、私がこの〈イメージ〉の概念を構想するとき、ドゥルーズの「シネマ」、とりわけベルクソン哲学を批判的に継承しながら概念化された運動イメージの考えを基礎にしている。すなわち、イメージとは存在体を単に認識することによって生まれるだけではないことを論じることができるだろう。この表象のされ方は、先述の身体病理のような対象が「あること」への認識を母胎とする。これを私は存在表象(ontological representation)と呼ぶ。それとはまた別のイメージのあり方とは、存在体がその状態を常に「イマ」の地点から「コレカラ」の地点へと絶えず変わり続けることへの認識から生まれる。すなわち、精神病理でいえば、これは「なること」への認識をもとに表象される。私はこれを生成表象(generative representation)と呼ぶ。

 ここで論じた〈イメージ〉の理論は、部分的にBelting (2011, p.18) によるイメージ人類学が提唱する、多義的なものとしての「媒体 (medium) 」の概念とも呼応する。しかし、彼が対象とするものを絵画や映画・写真といった文化的なものに留めているのに対して、私は人そのものを対象としている点においては、その探究法は異なってくるだろう。少なくとも、人間社会は〈イメージ的に〉構築されている点においては、共通項があると言える。

 

【終わりに】

 「哲学の万能さ」は思ってた以上に、誇張されていた考えだったのかもしれない。むしろ、哲学をやりつつ、他の分野にもまた目が開けたら百科事典的な世界観を象る一歩を踏み出すための試金石と捉えるのがより現実的なのかもしれない。
 
 つまり、哲学的なドグマ主義に全てを還元するのではない。哲学という抽象的な小宇宙をホームにしながら、他領域にも身を置く。哲学にも臨界点があることをしっかり認めつつ、そこで得た学識と新しい世界で得る学識とで繋げ合わせて、新しい知のフロンティアを見出す。それが、僕が求めていた「哲学」の姿だったはずである。
 
 今まで以上に、学術分野の垣根に囚われない学習と思考を磨き上げたい。「哲学徒だから」という理由で、例えば自然科学系のどの見識に触れない理由にはならない。僕にとって、哲学を学ぶ意義はそこにある。本当の「宇宙」は学問そのものであって、哲学はその中の「銀河系」の一つなのだ。よって、「哲学」という井の中に閉じこもって、「大海」を知らない蛙のような探究で慢心してはいけない。
 
 (自然)科学と哲学、表面上では互いに独立しながらも、依然として両者間に内在する共通項も見出す。となれば、あらゆる事象を哲学で説明できるとする「哲学主義」(philosophism)も、それと同様な「科学主義」(scientism)も人間社会を悩ませる根源的な諸問題への充分な解を提示することはできない。
 
 ここで述べたのは、そのような現状を踏まえた上で、僕なりに考えついた暫時的な「提言」である。あらゆるところで、理論的な陥穽もあったり、論理的な飛躍があって妥当性にかけている部分はあるかもしれない。とはいえ、これからの研究方針を示す青写真として、ここに掲げておきたい。
 

【引用】
「日本移民日記」moment JOONさんインタビュー 「移民」として生きる、そして引退宣言|好書好日. 好書好日. (n.d.). Retrieved January 12, 2022, from https://t.co/VTrpiavNdi?s=09

【参考文献】

Belting, H. (2014). An anthropology of images: picture, medium, body. Princeton University Press.

Currie, G. (1995). Image and mind: Film, philosophy and cognitive science. Cambridge University Press.

Deleuze, G. (1983). Cinéma 1-L'image-mouvement. Minuit.

【補注】
注1:ロゴス中心主義:フランスの哲学者、ジャック・デリダ(1930―2004)によって提唱された概念。西欧形而上学を支配する原理の一つで、広い意味でのロゴスを真理一般の起源に据えたり、最終的な収斂の場と考えたりする立場のことをいう。この文脈において、ロゴスは「言われたこと」「話し言葉」を指し示すものとする。
注2:ノマドジージル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによる共著「千のプラトー」にて提唱された概念。すなわち、自己同一的なるものに内在する閉鎖性・固定化の前提から離脱したり,それを破壊するもの 。自己を壊しつつ,自己を再構築する多義的・多型的生を徹底的に生きると同時に、常に運動の中で「外」や「他」と変幻自在の関係をもつ生のあり方を意味する。