「メリー・クリスマス」という言葉の冷酷さ

 メリー・クリスマス。この言葉をかけようとするたびに違和感を覚えたり、どこか突っかかりを感じてしまう。思わず言ってしまったら、僕の心の中にそのしこりがより凝り固まった形で残ってしまう。以下、その残滓の実相はなにかについて述べていく。

 言わずもがな、人それぞれクリスマス休暇の過ごし方は違う。日本でいうならば、恋人や友人とともに、或いは家族と共に過ごすのが典型的で、その日は身近な人との団欒を愉しむのが慣例的な認識である。だが、そのような団欒の和の空間に入れないことへの「哀れみ」を示すような、或いはそのような状況を自虐的に表現したのが「クリぼっち」という言葉だと考えられる。人それぞれ、社会関係の様相も違えば、その生活環境もまた多様に異なってくるはずなのに。

 その上、そのような団欒の和の空間は、この休暇シーズンの最中でも、働かざるを得ない「どこぞの他人」の自由な時間を搾取することで成立していることも忘れてはならない。大切な人と共に過ごす時間は、見ず知らずのどうでもいい人の時間が犠牲になることで確約されるのだから。

 僕がクリスマスというものをあたかも「神格化」する傾向に異を唱えるのは、まさに「いっしょにいること」を自明の理とする社会的無意識が全面的に顕在化されることにある。そして、「ひとりであること」が、この時期になると殊更「ありえない(非常識的)」という言説が社会を跋扈するのだ。

 従って、クリスマスはそのような親和性に基づいた自己と他者の共同存在を、相対的に「規律化」する事によって、この時期に一人で過ごすことの意味を虚無的なものだとする認識を絶対的なものとする。今やクリスマスは、すでに「つながりのある」人たちのつながりを更に強めて、孤立した人たちの孤独感を更に強める「社会的資本の格差」を生成する象徴的な「機械」になってしまった。

 クリスマスは、このような近現代以降の社会の世俗化と迎合することによって、もはやその神聖的な意味は欠落してしまった。それは、「特別な日」に人の輪の温もりを確かめうる者と、確かめえない者との隔たり、そして日常世界の労苦から休みうる者と、休みえない者との隔たりを強化・維持するための「通過儀礼」としての側面を有する。

 つまり、慣例的な区分に則って言うならば、この季節において、ありきたりな毎日から「逸脱しうる」有閑階級と、いつまでもそのような毎日に「従属せざるを得ない」労働者階級の間に広がる溝を見出すことができる。それによって、その社会にくらす人々の経済的・社会的な散布図を描き出すことができるのである。このダブルバインドな差異を、社会から諸個人に作用する形で、無限に生成し続ける構造を支える出来事の一例が、クリスマスなのである。