成長:「原本」が欠けた、「キャッチ・コピー」

 「成長とは何か」という問いに答える前に、いつしか「自分/相手は成長しているのか」、「どのように成長するか」という問いが先行してしまっている。根源的な問いの解がない上で、成長を語るにも限界があると思われる。そのように考えている中、ジブリ宮崎駿監督が以下の発言をしたことを知る。

"子供の成長をすべてとするのはおかしいんですよ。子供にはいろいろな可能性があるけれど、成長したらつまらない大人になる。子供が成長するというのはどんどん自分の可能性を失っていくことです。…"(藤津, 2022)

 僕なりの解釈だが、次のことが考えられそうだ。つまり、「子供から大人へ」という成長の言説は、僕らが意図せずとも極度に依存している。「あの人は子供っぽい」、「あの人には大人の風貌と威厳がある」、とか。

 部分的に言えば、「歳の数だけ成長すべき」という直線的な固定概念が深く根付いていることへの指摘にも受け取れる。同時に、「人として成長すること」を定量的に考えすぎると、自分の「子供っぽさ・大人っぽさ」を棚に上げて他人の「子供っぽさ・大人っぽさ」が論じやすくなるのも、現に私たちの無意識的なクセなのだろう。

 「成長する」というこの感覚。「つまらない大人」になってしまった、あるいはなってしまっているのではないか、という諦観と不安感で自己を認識するぶんだけ、そのやるせなさを吐き捨てるために、相手の「子供っぽさ」を必要以上に否定的な形で作りたがる。

 「いつまでも子供だよな、大人になれよ」というメッセージを通して、相手の人格の瑕疵を顕在化することは容易いものだ。しかし、その人がどう成長するべきなのか、あるいはどのような基準をもって「大人である」とするかまで明示する責任を果たす人はどれだけいるのだろうか。

 そんな相手に対して「自分で考えろ」、と言って突き放すことも容易いものである。つまり、他者に欠けているものに目が向くぶんだけ、自分という人間の「欠けている」ものを曖昧にしたままなのが、人間であればほとんど普遍的に有する性なのである。

 「成長する」ことへの盲目的な執着から生まれる、相手への「厳しさ」、そして「優しさ」が内実を伴うことは稀有なことではないだろうか。何なら、ゴールが明示されていない「成長しろ」という言葉、「自分は大人、相手は子供」という裏付けのない思い込みは、却って人間関係に軋轢を生み出す。

 「成長する」ということを「なんとなく」、「イメージとして」考えてる程度でしかなければ、それはただの幻想ではないか。故に、起点が不在しているメッセージ、いわゆるシミュラークルとしての「成長」が、我々の共通認識に根付いてしまっているがゆえに起きる対立や齟齬の数々は夥しいものである。

引用:

藤津 亮太. (2022, January 6). 「子供が成長するというのはどんどん可能性を失っていくことです」『千と千尋の神隠し千尋の"足元"から浮かび上がる"ナゾ". 文春オンライン. Retrieved January 11, 2022, from https://bunshun.jp/articles/-/51272?s=09