世界:(ィンター・ネット∽社会)∈(人間/技術)

1.

 テクノロジーが個人の主体性、存在様式から有機的な人間関係までも支配する今、SNSという無線網と、人間が弁証法的な「抗争」に置かれている。つまり、私たちの一つ一つの主体的な経験が、オンラインの投稿という形で電子記号化されていくことは、「主たる(mastery)」技術空間に順応していく私たちの意識が奴隷化していく過程そのものだと言える。

 そのようにして、私たちの奴隷意識(slave consciousness)は、そのような言語化への欲望を産み出す「工場」になってしまっていたのかもしれない。私たちの無意識がそのような技術産業の侵攻に対して「積極的に」屈服したこと、それが同時に私たち自身の精神的な福利・生態もまた無意識的に蝕む。

 すなわち、科学技術は、それを「全能者」として崇め、それが「施す」利便性に対する「信仰」を持つ個人の自由意志を「侵攻」する。それは、その人の主体を脱在的に象ることで、「全体」による「個」の存在論的な植民地化を成し遂げる。もとい、人間と人間同士の相関性のはずが、いつの間にかテクノロジーという、あまりにも恣意的な性格をした「仲人」を介さなければ樹立するのがあまりにも難しいものとなった。

 

2. 

 どれだけ人間主義に依る潜勢力に憧憬を抱いても、人は知的、時空間的な有限性を、科学・技術という大他者がアクチュアルなものとして突きつけられていることから逃れられない。そのような、インターネット社会の発達は、意思疎通を極度に加速化させた。

 そうなると、言葉を介して伝えられる情報の捉え方においても「理解すること」から「消費すること」に志向性が変わっていく。なぜなら、情報の背後にある文脈には意味が過剰に上乗せされている(semantic overload)が故に、その受け手の知的な負担を軽くすることが求められるようになるからだ。

 そのためには、情報の送り手の負担を重くすればいい、という発想のもとで送り手と受けての間にて認識上の抗争が生じるようになる。もとい、インターネット社会は、見せかけ程度の全知全能性を繕うために、その虚像を強固なものに仕立て上げる。だがそれだけでなく、情報の全容が予め「透明」であることを、発信者に要求する。情報の存在意義が正しく「すぐ・在る (Being-right-here)」ことに縮約されているのだ。

3.

 これらの内容を踏まえると、次のことが言える。総じて、on-lineな世界と、off-lineな世界は、キアロスクーロの関係性のもとでさまざまなグラデーションを醸し出す、と。その狭間の「線」の上を不可逆的に歩いているという「視・点」からすれば、幾何学的な相似を成す関係だと気付かされる。もっと言えば、この関係性をいわゆる弁証法にも対称性にも還元しきれない。

 結局、「線から離れた」世界も、「線の上の世界」との差延上に広がっている。人間社会での「リアルな」世界と、技術が作った「ヴァーチャルな」世界との間に個体差はあっても、その異なる界面は、超越的に同質化している。その中で、「自己」と「他者」が互いをどのように認識するかは、有機的な生成変化を常に続けていくものだ。

 故に、「わたし」という人間も、「あなた」という人間も、その存在を定義するものは絶対的に固定されていない。その相関性すら、流動的なものなのである。「文字通りの、(だが)小文字のインター・ネット」 (inter-net à la lettre)。その「世界内」において、満たされることのない欠如を満たそうと生きる人々。そのような欲望が現代という時代の世相を象っている。