自然と文明の相克

1. 人間社会、あるいは絶対的な「王権制」

 

時間通りに学校・職場に行かなければ。日頃の労働を支える交通インフラ。お腹が空いたら、ご飯を作りたい。そんな時に消費する電力や水道システム。暇だ、何か映画でも見ようか、それとも音楽に浸ろうか。そのような創作品へのアクセスを瞬時的に可能にするインターネット。

そのような街並みの中に、文明の諸様相が垣間見える。即ち、文明は「現代人」の時代精神を反映し、その社会意識の母胎としてもあり続ける。人間社会の高度な文明化は、およそ近現代まで野放しにされていた時間と空間を、人間による科学的理性によって「物質化」することに成功した。つまり、絶対的主人の座に鎮座していた自然から、その権力を「簒奪」することによって、人間はその後継者たる地位を確立させてきたのである。

これからも、人間自身がどれだけ「進化」したのかを示す指標として文明は発展し続けるだろう。しかし、そのような直線的な進歩主義(linear progressivism)は、人間社会の集団的なエゴイズムを助長さえもする。


2. 自然、あるいは社会間の抗争を支える「タテマエ」


人間界は、啓蒙主義や幾度にわたる高度な産業革命を通して、そしてこのように自然を他者化された存在として切り離すことで、その自決権を定義してきた。だが、その境界線を強調すればするほど、人間は自然の「反逆」に直面する。

事実、今もなお猛威を奮うコロナ危機、そして近年の異常気象や、幾多にも及ぶ自然災害は、そのような人間中心主義(anthropocentrism)がただの脆弱な虚構にしか過ぎないことを思い返させてくれる。我々は常に限界状況に置かれながら、苦悩しつづける動物である。

だが、物質主義はその苦悩すら存在していることを忘れさせてしまった。自然との関係性への配慮が欠けたことも例外ではない。文明の深化は、そのような現状を無下に肯定する口実にはならない。

また、そのように高度に文明化した人類は、環境問題という言説をもとに、自然という野生空間を再調教(re-domestication)する。即ち、我々が共通認識として抱く環境問題への意識は、常に人間が自然を「救う」という救世主思想(messianism)と隣り合わせであり、人間と自然が共生する世界の可能性は、事実上形骸化された形でしか残されていないことへの問題意識を希薄なものにする。

環境問題のフレームワークがこの建前と現実の間で乖離を起こしていることに対して、人間が内省的に考えきれていないこと、それは人間による自然への「オリエンタリズム的な」態度が露呈されていることを意味している。それでは、近年流行しているSDGによる啓発運動を進めたところで、人間の虚栄心を取り繕う程度の効果しかでないだろう。

もし、今後も環境問題において「他者化された」自然の問題が討議されることなく、ただの標語政治の源泉としてしか了解されないのであれば、この啓発活動の青写真そのものが極端なユートピアであるという問題は未解決のままであろう。

悲観的すぎるかもしれないが、環境問題というテーゼを、どうも社会による人間中心主義的な世界を維持したい、という自己保存の欲求として捉えてしまう。人間社会の秩序が混沌としていること、及び自然界を自ら(無自覚に)「他者化」しながらもその主権下に従属させようとしていることで維持されている「無意識」にこれからもあやかり続けること。果たして、それが人間にとって公益性のある「倫理観」なのだろうか。

このように、人間自身が既に外の存在を「他者化」していることに盲目なまま、語られる「正義」はその論理の支柱がとても脆弱である。環境問題に限ったことではないけれども、この正義を鵜呑みすることを「共通善」とするならば、これ以上の偽・善はない。

 

3. 終わりに

 

総じて、環境保護を「自然の家畜化」とするならば、人間にとって「自己」となりうる社会が、その「他者」たる自然を父権的に保護する態度を肯定しているに過ぎない。さらに、当該の問題にて、社会に自然が内包されるのか、あるいは自然に社会が内包されるのかでその社会的意識が曖昧なままにするその姿勢自体、致命的な盲点ではないだろうか。

ところで、「社会と自然の共生」という理念は、先進国とその他の国々との間とで父権的な秩序を維持するための言説であるように思える。恰も「子」に対して厳命を下しながらも、自身の放蕩ぶりには無頓着な「父」のように。それをすでに察している「子」はそれに対する「破戒欲求」を抱くのだから。

社会と自然の「共存」(co-existence)とはいうものの、当の人間社会において国家間・地域間で政治的・経済的な打算性がうごめく限りは、その理念すら絵空事で終わるのである。まず、人間界における諸国家間に内在する根深い「共=脱在」(co-ex-istence)の問題への意識が向けられない限り、環境保全の話は本質的になされないだろう。