社会学らしくない人類学、人類学らしくない社会学

f:id:wjk_9625:20230115143504j:image

外野の僕がとやかくいってもしょうがないが、文化(社会)人類学とはいえど、マクロな自己を見るための「社会学」、マクロな他者を見るための「人類学」の2つで分業していて、根源的に両者は切り離れていると思う。

まず、人類学は「我々」を知るために「我々自身」を対象としてこなかったきらいがあると思う。あるにしても、それは「社会学的」な探究の対象としてすり替えられる。客観的に自己を振り返られることを示すのは社会学が、途方もない無尽蔵に存在する他者には人類学が、とする排他性が暗に機能していたのではないか。

私が知る限り、人類学は少なくとも数十年前までは「未開の地」を文明(化)された眼差しの対象 (object) として構築した上で「我々とは何者なのか」としてきた。そのような世界観が、西洋と日本の人文社会系の知的土壌における慣行だったと見る。

つまり、我々自身を批判的に内省するための人類学はまだ存在感が薄い。というのも、近代化された「時間」を相対化しないといけないから壮大なプロセスになるだろうから。人類学は何を対象としてきたのかは着目し続けるべきと見る (cf. Fabian 2002).

自己に人類学的な眼差しを、他者に社会学的な眼差しを、なんてやったらそれこそエスノセントリズムを助長する虞がはらむ可能性はあるのだろう。ただ、人文知が暗に自己を文明的に、他者を野生的に措定した上で機能していることには無批判でいれない。

社会学は、国際社会化された世界の上位層を対象としている点で、特権的な学問だと言えよう。また人類学は、その他の第三世界を対象とすることで前者の世界観を基礎づけている「文化−自然」の二元論をさらに強固なものにする。人文学が基盤とする、この緩やかな区分けが、却って文明社会と野蛮な世界を排他的にゾーニングする根源となっている。