愛国の主体


「祖国のために」。それは愛国の心の根底にある理念である。ふと立ち止まって考えてみると、我々が愛国的だとする言動・態度は、無意識的なものである。


一般的に、私たちは「祖国を思う」という感情に突き動かされているものだということを、そこまで意識していないままの時がほとんどだ。それでも、外国から帰ってきたときに、「やっぱ自分の国っていいな」と思う感情はどのように説明すべきだろうか。

このように、愛国の心は、私たちが思うより、個人のコントロールが効くものではないかもしれない。愛国とは、社会の最小単位である「個人」という立場を超越した「国民」としての全体的な統一感をもたらす。「日本最高」にせよ、「デハミングマンセー(韓国万歳)」にせよ、どの国においても民族的な所属意識をもっていれば、その連帯感に安心を覚える。

それでは、本題に入ろう。これらの前置きで私が主張したいのは、以下のことである。すなわち、人間の主体は「国民」という政治的な側面と、「個人」という社会的な側面によって二面的に象られているということである。つまり、比喩的に言えば、我々の自我とは双頭竜みたいな形で存在していると言っても過言ではない。

これに関して、歴史家であったエルンスト・カントロビッチ(1895-1963)は、近世以降のイギリス王政を元に、王の存在の二面性を論じた。すなわち、王とは、神からその絶対的権力を担保された存在(「政治的身体」)であり、また人間としての脆弱な側面(死に至る運命)も担った存在(「自然的身体」)でもある。

この二面的な身体論だが、自由民主主義の社会では、すでに普遍的に機能している。というのも、近代化・民主化の流れで国民国家が形成される上で、「名もなき人」だった我々は、国家という統治機構が管理することによって個々の「名前」を与えられるようになったからだ。王という一個人が占有していた主権は、その政体に所属する市民であれば一人一人が所有する権利として、「個人的な」ものとなったのである。

これらをもとに、以下の考察が導けるだろう。つまり、私たちは生まれたときから、「愛国しうる存在」である。ゆえに、社会への適応は、私たち自身が政治化していく過程(politicization)でもある。政治化とは、特定の統治機構に従属していくことでもある。故に、そこには排他的な原動力が要請される。

その順応への代価として、各個人は国家によって、機械的に管理される。もし日本人ならば、「日本人のわたし」は半永久的に、国家に記憶される。しかし、「そのままのわたし」は一度死ぬと、僅かばかりの間は身内の記憶の中で生きるが、やがてその残滓も時の流れに吞み込まれていく。すなわち、記録される主体は、記憶される主体より超越的な時間を「生きる」。それは、「わたし」がその国民国家が統治する主管圏の中で「生きていた」証拠としてアーカイブされるのだ。

フーコー的な言い方をすれば、愛国心とは、我々がその自己を生成するためのテクノロジーである。だから、我々の存在が、社会的であり、政治的であることを国家はは要請する。そして、国家はあらゆる手段で我々の身体に概念的な技術を加えてくる。

このようにして、象られる愛国的な主体は、我々にあたかも「人間としての本来的な姿」、つまり「本当の自分」はどうあるべきかを教唆してくれるかのようだ。しかし、その確信は、ナショナリズムの虚構への盲目的な無知を反映しているだけなのである。