あなたの欲望は誰のものか

みんながそうだった、というわけではないが、僕の身の回りでフェミニズム思想、およびその流れにおいて自由と平等の概念的な再構築を主張する人たちでも「家庭持って安定した生活したいから結婚はしたい」という人が案外多くいた。

しかし、婚姻が社会的に制度化されていることを了解しているか、家庭を持てば安定するのは必然的か、および子供を持ちたいというのは自主的な意思によるものなのか、どれも僕の中でどこか腑に落ちないばかり。そりゃ個人の選択の自由の問題なので外野があれやこれと言うことではない。とはいえ、これらの意味を咀嚼していく中で「フェミニスト的な自己」(the feminist self)に何かしら影響はありそうだが。

たくさんの解釈を充てられる中でも、特記すべきなのは、私たちの欲望のあり方、その方向性は無限通りにあるが、その中で私たちの主体から湧き出てるものはどれだけあるのか、という点。逆説的にいえば、私たちの欲望とそれに伴う意思決定は、どれだけ社会の介入から免れていることができているか、という点にまとめられる。

結論から言うと、個人が「純粋」に求めることを示唆する欲望よりも、社会がそれぞれ個人の潜在意識に植え付けられた「人為的な」欲望のほうが私たちの生活のあらゆる側面を象っていると考える。故に、「安定した生活を送りたい」「家庭を持ちたい」「結婚したい」といったような、様々な「したい」は、個人の自由意志からではなく、社会という規律空間によって生成された〈法〉によるものがほとんどなのではないだろうか、と考える。

しかも、これらの例に限って言えば、これらの3つの欲望は、「家庭を持って」「安定した生活したいから」「結婚したい」というふうに一つの過程として論理化されていく。それぞれ定性的には独立しているはずの行為が、ひとつながりの鎖のような過程としてつなぎ合わせられているのだ。そのような繋がりを自明の理として無批判に必然的とするのは、誤謬だと考える。

自身が拠り所とする思想・精神のあり方と、社会的な生におけるリアリティーは、その意識下で衝突することは数多とある。フェミニズムに限る話ではない。個人の信条・思想が、どんな政治的・社会的スペクトラムに属していようと、他者(社会や外界まで広義に想定すれば〈大他者〉)に対して批判的で、自身に無批判になりやすいのは、ヒトな誰しも陥りやすい傾向だろう。我々の欲望においても然りである。それは、自己の主体によるものではなく、社会によって工作されたものがほとんどである。