「病んでいること」の認識論:これからのメンタルヘルス・リテラシーのために

前置き

3月は厚生省にて自殺対策強化月間とされているもあり、今回は精神疾患の観点からその啓発につながれば、と思い以下の文章を書きまとめました。非常に長いものとなってしまいましたが、ご拝覧のほど願えればと思います。

1. 精神疾患というタブー

 今日に至るまで、精神疾患は社会的制裁の対象として忌避されてきた。今となっては、その〈ケガレ〉としての側面は批判的に論じられ始めているが、それでも合理的であることを美化する傾向は未だに根強い。そのように我々が「狂気の露出」をためらうには、そこに表象の作用が社会的に機能していることにも理由があると私は考える。以下、精神疾患に根ざした認識論を考察する上で加味されるべき要素として表象の社会的な仕組みと生態を述べ、哲学的観点からこの問題をどのように論ずるべきかを論ずる。

2. 世界、あるいは表象の総体

 表象(representation)とは、身体的な感性が人間の言語表現や芸術表現に「翻訳された」ものと言える。それでは、この文章で述べていく社会的な表象とは何を意味するのか。モスコヴィッシの論考に基づいて僕の見解を述べると、自分の知覚、認識、思考、すなわち〈わたし〉という主体が生み出す観念が、〈あなた〉という他者の認可を得ることによって、コモン=センス(共通認識)に「翻訳された」ものだと考える。いわゆる「社会の常識」はこのようにして個人間で生成されるコモン=センス(共通認識)の総体として考えられる。

 そして、表象が、我々の「眼(≒脳)」の中で世界をみる「レンズ」として果たす役割は大きい。なお、この表象の種類はおよそ2つに分かれると考える。その一つが、映画的表象(cinematic representation)である。これは、精神病理という対象を3次元的に「撮ること」で形成される。それとは相補的、または対照的なものとして考えられるのが写真的表象(photographic representation)である。ここでは詳しく述べることができないが、核心のみ端的に説明すると、これは身体病理を2次元的に「撮ること」で形成されるものである。

 では、これらの二つの形態の表象があると提言することでどのような理論的な応用の展望が見えてくるのか。もとい、私がこれらの表象の概念を構想するとき、ドゥルーズの「シネマ」、とりわけベルクソン哲学を批判的に継承しながら概念化された運動イメージの考えを基礎にしている。すなわち、イメージとは存在体を単に認識することによって生まれるだけではない。

 この表象のされ方は、先述の身体病理のような対象が「あること」への認識を母胎とする。これを私は存在表象(ontological representation)と呼ぶ。それとはまた別に、存在体がその状態を常に「イマ」の地点から「コレカラ」の地点へと絶えず変わり続けることへの認識から生まれる表象がある。すなわち、精神病理でいえば、これは「なること」への認識をもとに表象される。私はこれを生成表象(generative representation)と呼ぶ。

 ここで論じた表象の理論は、部分的にBelting (2011, p.18) によるイメージ人類学が提唱する、多義的なものとしての「媒体 (medium) 」の概念とも呼応する。しかし、彼が対象とするものを絵画や映画・写真といった文化的なものに留めているのに対して、私は人そのものを対象としている点においては、その探究法は異なってくるだろう。少なくとも、人間社会は「イメージ的に」構築されている点においては、共通項があると言えるが。

3. 表象に基づく統治

 では、これと健康への認識における合理性の考えとはどのように結びつくのか。まず、合理性は、ただ単に「正しいロジック」として存在するだけでは我々の人間世界を支配することができない。その統治性(governmentality)を強固にするには、まず心理的イメージとしての存在感も放たないといけないだろう。即ち、社会が正常であるには、異常者たちが忌避されるための条件を整えなければならない。健常者と精神疾患を患った人間たちが共存するのは、社会という顔のない主体にとって不都合なことなのである。そのために、社会は様々な象徴を操る動物である我々の主体を侵すウイルスとなるような表象を送り込んでくる。

 そうなると、社会の中に生活する〈わたしたち〉はその無意識の中に、逸脱者たちを追い払いたいという欲動を植え付けられるようになる。この〈彼ら〉を排除することに対して罪悪感をあまり感じないのはなぜか。それは、合理性という免罪符を付与されることで〈わたしたち〉は安堵感に包まれるからである。精神疾患を巡って偏見や差別が絶えないのは、このような合理性と表象が結託することによって「排除による共同体」が維持されるからだと考える。

 それでは、異常者たちに人権は考慮されないのだろうか。否。合理性というものがもとい有限性の中でしか成立し得ないものなのだから、誰が正常なのか、異常なのかという判断も根源的には恣意的な感覚でしかない。そうなると、この周縁化された〈他者〉を巡る包容の問題が生まれる。(注1)

 そして、〈他者〉を包容するにしても、それが既存の正常性に連れ戻すのか、それともそのあるがままの姿を受容する制度を模索するのかで議論が分かれるだろう。私はこの二択に問題が分かれること自体に危機感を覚える。健常者という「医者」が、「患者」たる異常者たちを「治癒する」という構図からの脱却を図るには、どちらの選択も生半可なものであるからだ。

4.「精神医療の哲学」(Philosophy of Psychiatry)の3座標

 繰り返しになるが、この「常識病棟」とも言える社会の構造に変化をもたらすのであれば、健常者と異常者という立場性自体が相対的なものだという認識が促されていくことになるというのが今の時点での私の結論だ。それを論証するに当たって、私は以下の3原則を批判的に討議する「精神医療の哲学」を打ち立てる必要があると考える。

・臨床的基礎付け主義(Clinical Foundationalism):「患者」に対して「医者」が圧倒的に優位な立場にいるような力関係が治療の根底概念として定着していること。

・生政治的意味論(Biopolitical Semantics):自己と他者の存在論的差異を「適合しうる者」と「適合し得ない者」の両極性に翻訳することによって、「健常者=生きる自由/異常者=死ぬ定め」という解釈の定式を確立する言語資本。

・功利的認識論(Libertarian Epistemology)社会に内在する既存の言説・エピステーメーが「患者」の存在様式を否定的に定義することで、健常者が彼らをタブー視することを正当化することから、「排除はしょうがない」とする社会意識が形成されること。全体(多数派)の健康を第一に追求すべきで、一部の異常者(少数派)の公益性を捨象する社会意識の形態。

これらは、主にフーコーの著作を参照して構想したものである。これらの諸概念をより精緻に理論化しつつ、それに付随する問題意識をもとに「正常化作用」(Normalisation Effect)と「病理の構造化」(Structuration of Pathology)の仕組みを精査する必要性があると考える。

 人類の歴史が近現代という時代を経てから、我々は常に合理性というものを深く追究してきた。それがあたかも人間が理想としてきた本来的な真理であるかのように。だが、それは我々の「裸の姿」そのものだと言えるのか。即ち、我々の求める合理性とはその自然状態、つまり異常性を隠蔽するための「衣装」ではないのだろうか。

 そのような「衣装」をまとった精神医療を、フーコー的な系譜学に則りつつ批判的に論考し、フーコー後の精神医療の沿革を踏まえながら、「こころの健康」への社会意識の様相を読み解く知的基盤を構築しなければならない。これらのことを念頭に置きながら、これからの世代の「メンタルヘルスリテラシー」を育成することの意義を唱えていきたい。

注1:ここで注意して戴きたいのは、この〈他者〉は必ずしも、辞書的な意味のままではないということだ。つまり、彼らの包摂の是非を問う前に私がここで主張したいのは、〈わたしたち〉という存在が〈彼ら〉であり得る、またはあり得た可能性への思慮が必要だということである。この前提がなければ、健康への認識のあり方においての多様性の議論は発展性に乏しいままだと私は考える。

参考文献

Belting, H. (2014). An anthropology of images: picture, medium, body. Princeton University Press.

Currie, G. (1995). Image and mind: Film, philosophy and cognitive science. Cambridge University Press.

Deleuze, G. (1983). Cinéma 1-L'image-mouvement. Minuit.

Duveen, G., & Moscovici, S. (2000). Social representations: Explorations in social psychology. Polity: Cambridge, Oxford.

Foucault, M. (1972). Histoire de la Folie à l'âge classique. Gallimard.

GILMAN, S. (1988). Disease and Representation: Images of Illness from Madness to Aids. ITHACA; LONDON: Cornell University.

Moscovici, S. (2001). Social representations: Essays in social psychology. Nyu Press.