either/or:「第三者」がいない社会

私が見る限り、近年の政治・社会空間は専ら「多数派か、少数派か」という二分法に敢えて則る形で、社会と個人の様相を形容しようとするようになった。更に踏み込んだ言い方をすると、そのどちらにもなれない「第三者たる存在」が排除される社会構図が、今日の政治と社会を動かす原動力になっている。

もし社会の同質性を「第二者性の排除」を以て維持することを試みるのが多数派なら、「異質な存在」に寛容なはずの少数派は「第三者性の欠如」を暗黙の了解としている。これはどういうことか。つまり、「異質な存在への寛容」を求めながら、なぜそれが「異質な異質性」の排除を前提としなければならないのか。それは、少数派の中でも、「理に適った異質性」と「理に適わない異質性」の区分を必然的に設けなければならないことにあると考えられる。

第一に、異質性に整合性があるというのは、その「他者である」ことに政治的な意味が含まれていること、あるいは政治的な表現可能性を孕んでいるということを意味する。それに対して、整合性に欠けた異質性とは、多数派に抵抗しうるだけの政治的な表現可能性に乏しく、常に静寂を保っている。たとえ周縁化された存在としては「同じ他者」でも、「声を放てる」のか、「声を放てない」のかでその差異は生成される。つまり、政治的言語を「話せる能力」が低い社会的な立場にいればいるほど、少数派の政治活動への貢献度が低くなる。従って、少数派が想定する整合性とは、多数派へのレジスタンスに基づく連帯感を産出するためものである。

これらを鑑みると、精神患者はこのどちらにも当てはまらない「第三者」の例として考えることができる。なぜなら、人間が心を病む上で、多数派、少数派、この両者の「どちらも選ばない」からだ。そして、精神疾患という人間の健康的な統合性を蝕む危険性は、その普遍性が故に、政治的・社会的差異に基づいた諸個人の特殊性を隠蔽する「危険性」も孕む。精神分析的に言えば、「俺か、お前か」という社会的生存を賭けた異なる集団間の想像的対立は、精神疾患という「大他者」が介入してくることで象徴的に解決されてしまう。そうなると、多数派も少数派もその存在意義を失う。

故に、「(病んだ)他者」をいかに包容するべきか、あるいは「健常者」と「異常者」の関係をどのように再構築していくかという議論は、必然的に淘汰されてしまう。これは、私たちがそんな「他者」になり得る、またはなり得た可能性を加味した当事者性が欠如していることを示すものである。そこから、「私達は正常で在り続ける」ということへの存在論的な安心感の確保したいことへの欲求を垣間見ることができる。それは同時に異常性、あるいは「未知なるもの」に対して抱いている恐怖が潜在的に存在していることを意味する。

総じて、我々は気づかないうちに「正常な人間」と「異常な人間」の境目を見出そうとする。しかし、それは自分自身と「正しさ」という人間の規範性を同化させたいとう所属意識への欲求が動いている証左である。このようにして、我々は合理的であることに執着する。そのようにして象られた合理性に従えるか。これは、多数派と少数派が「政治ゲーム」を進める上でのプレイブックでもある。

「普通であること(=正常な状態)」、これが依然として人間の政治的合理性の基盤でもあるならば、私たちが思う「健全な人」のイメージは、一人一人が「狂気」に陥る可能性を隠蔽することで作られた「幻覚」として考えられる。これを、精神疾患のタブー化、精神患者の社会的排除の構造の考察に援用すれば、その理性が有限的な人工物であるのは自ずと見えてくる。「ルール」という規則性が成立するにあたって、そこに予期しえない「余事象」までも加味したら、いつまでもその機能は果たせないままになってしまうのだ。