「 (=日本)」:有象無象の〈ふつう〉が象る空虚な「世界」

 もし愛国者が日本万歳と叫ぶならば、その人は最低限「日本(人)らしさ」の不可知性を強く意識した上で、かつその明確な輪郭の〈不在〉に母国の誇りがあることに強い信念を持つべきである。「日本最高!」は、「どっちつかずな我々」の中に至高性を認めることに等しいからだ。管見では、ナショナリズム的な熱狂は、ネイション的な根源が実際には確認できないが故の不安定さに突き動かされるものである。「日本!日本!」と騒ぎ立てる声は、実際には何も音を発していない「無音」の叫びなのである。

 その根底には、「ふつう」という曖昧模糊な認識と、それによって象られた世相を反映する日本の「社会」のあり方が、批判の余地を許さないほどに強固なことが考えられる。この集団において、「社会」という日本語が、「普通の考え」、「普通の感覚」から派生するあらゆる形の「ふつう」と同義的に用いられやすい。その「ふつう」とは、普遍性に典拠したものではない。むしろ、それはその場ごとの適材適所な認識のあり方、つまり刹那の「時」と「場」にすべてが吸収されていくような世界観のあり方なのである。

 仮に、社会=世間だったとしても、日本語で使われている分には、空虚な主語として一応機能している程度である。私見ではあるが、社会学の了解に基づくゲセルシャフト的な意味で「社会」という言葉が使われるのは滅多にないように思える。すなわち、この本来的な意味が〈不在〉した形での「社会像」が、この島国に住まう人たちの常に流転していく共通認識の基底にあることが、有機的な集合体としての「日本」に押し寄せる外圧等の緩衝材になったと思う。その政治的な帰結に関しては、常に私は否定的なのだが。

 ネイション、「国民国家」および社会/共同体の概念的区別の核に当たるのはまさにそれ自身が〈不在〉していることにあると考える。それぞれが、空虚なものから〈真理〉による言説的空間が象られてきた歴史=物語 l’historie を語るための仮構的なテーゼなのではないか。詰まるところ、〈不在〉、あるいは集合的な姿をしたありとあらゆる空虚なモザイクから社会的な「生」、または「死」を付与されている私たちなのだ。