哲学、この憂鬱な営み

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もし〈政治的なもの〉が秩序と規範が内包しうるものとその外部(≒例外状態)の境界線に基づく力の作用に関心を置いているならば、〈社会的なもの〉は感覚と認識の共通性から成る輪を構成するものとその外部(≒他者)の存在的差異に関心を置いている。

今日の国際社会では、〈政治的なもの〉の側面から生じた例外状態が、〈社会的なもの〉が象る人間の生の営みにいつ大きな被害をあたえてもおかしくはない。〈政治的なもの〉の代理人、つまり国家の利害紛争によって、〈社会的なもの〉の中に住まう一般市民の安全と生命が無秩序な桎梏に投擲される虞が常に併存している。

別の言い方をすれば、自由民主主義的な世界秩序においても、〈全体的なもの〉=国家権力の恣意的な運営によって、〈個的なもの〉=一般市民の自律、および生来的に付与された権利を行使する力を剥奪される可能性が常に潜んでいる。

ところで僕なりに、哲学から距離を置きながらも、〈政治的なもの〉とも距離を置いている。いわば、「あいだ」(フーコーならば「関係」とでもいうようなもの)への眼差しの形がそうなっている。一つの見方に固定化された世界観は、その基礎づけに回帰するような思惟と感性を生み出すことに徹しやすく、そこから見えているもの(像)を容易に合理化するからだ。勿論、鳥瞰的な見取りで世界を見下ろすことはできないが、それは一つの観点に拘泥することの口実とはならない。

そんな哲学は、存外「ナショナルなもの」に癒着している。その割には、「ナショナルなもの」が対立し合い、泥沼化する世界には何も言えない(に等しい)。何かを言うにしても、まず己に内在する矛盾を克服する試みすらないがために、その提言は虚なものとして糾弾される。このシナリオを何回見たのだろう。

哲学は、己のナショナルな無意識に対して無批判を貫き通そうとする。例えば、ノーベル賞受賞者発表の際のメディアの「ネイション崇拝」を批判する学者や知識人は多くても、自身の価値観と言論、成果物への評価に内在する「ネイション崇拝」は看過されやすい、または意図的に無視されやすい。

もし「哲学をするならば」、そういったナショナルな思惟の産物にも批判の眼差しを向けられるはずだ。ある程度「ホーム」に対する愛着があってこそやっていける側面はあっても、それがないと世界を見る眼が形成されないのならば、それは見直す余地がある。