権力に抗う意識の機能不全的な様態

 この数ヶ月、日本の世論・言論ともに、岸田政権によるインボイス制度の導入をめぐり、論争があらゆる形で展開されてきた。総じて、このような情勢は日本社会における市民の政治的参加の形態が不十分な有り様を露呈する事象の一部であると考える。一貫して私は日本社会における市民的行為のあり方を肯定的に評価できないという断りを入れておきたい。

 

 インボイス制度への反対署名、およびその引き金となった権力機関の姿勢と対応は、次のことを示唆していると思う。まず、あらゆる社会問題の諸相で、なぜ市民意識としての権利と義務の認識形成に対して私たちは消極的だったのか。そして有事の際に国家に十分抗える主体としての国民意識の象り方を、私たちはなぜ積極的に広く論じてこなかったのか。この2点は、私たちが今後意識した上で政治に参加する上での課題点となろう。

 

 上の権力に従順した上で、政治的にどう関われるか程度に今まで日本の政治情勢の土台が成り立っていたことに、権力者の横暴を看過した要因があると思う。「お上」の言うことは正しいという精神のあり方が根強い点では、戦前期の世相の名残のように思える。言い換えれば、政治的判断や意思決定の最終的な主体は、市民的な自己に求めず、外部の権威的な他者に求める。したがって、政治的な責任とその遂行義務は市民自身にではなく、国家・政府に局在化したものとなる。市民が政治的生命から自己疎外しているような状況に、日本的市民社会の深刻な問題を確認することができる。

 

 また、一つの比較として、戦後・冷戦期にアメリカから強い影響・圧力を受けた日本と韓国で、歴史的な経緯からしても民主化に対する温度差を強く感じる。おそらく、韓国では軍事独裁の経験、光州事件による弾圧の経験をはじめ、民主主義を自明的なシステムとして「見る必要性」から免れることができた側面が強かった。それが今の韓国政治をよく導いているかとなると、議論の余地はおおいにあるのだが。

 

 総じて自国の政治的制度は然り、そこで支配的な政治的観念までもが「無意識なもの」として存在する程度になってしまうと、その社会の秩序に軋轢やねじれ構造が発生しやすくなる傾向があると考える。同時に、この「政治的なもの」の無意識化、およびその自動的な捨象は、高度に促進された近代化がもたらす構造的な飽和作用だとも言えるかと。国家建設の過程における「選択と集中」の最中、そこから政治的意識の涵養が淘汰されると、このような「副作用」をその成員が被りやすくなる。

 

 政治的な営み、そしてその共同体にとっての例外状態が、国家の専横である。しかしながら、この社会では政治を論じ考えること自体が「例外状態」になっているのだ。