汝自身を知れ:「王」を知ること

 歴史家、エルンスト・H・カントーロヴィチによると、「王」というものは自然的身体 body natural と、政治的身体 body natural の二面性から成り立つ。「神的」なものとされているのはもっぱら後者であり、前者はごく普通の人間の身体と同じものとされている。言ってしまえば、一個人なのに二つの身体を持っているというキメラ状態の存在が「王」であり、その存在者は神に委託された一つの土地を完全に統治する主権を行使するというのである。おそらく、現代人からすればなんとも馬鹿げた話であり、そんな時代があったことすら辟易してしまうような感覚さえ持つであろう。


 しかし、少し冷静に考えてみれば、実は今どきの社会にも通底するものがあるようにも思える。(少なくとも、メディアの言説では)今日の世界において、リベラルな世相に色づけられた民主主義的な社会が理想形とされている。だが、問題はその中における主権概念だ。原則として、私たちはそれぞれの生まれた国の国民である限りにおいて、その市民としての権利を享受し、義務を遂行することができる。だが、市民としての私たちにも、「二つの身体」があるのではないだろうか。すなわち、私たちが国民であることを保証する国家というものは、神話的・伝承的な基盤をもとにしてできたものである。また、同時にそのような土台は、誰がその共同体の国民であるかの境界線を定め、またその中の様々な慣習や伝統、及び規範は誰によって守られていくべきかも規定する。

 

 いわば、国民というのは、私たちがどこかしらの市民である限り、それに付随する半永続的な国家的系譜を引き継ぐだけの政治的身体を保持することを意味するだろう。また、同時にそれに基づく国籍を何かしら持たなければ、私たちの身体は極めて自然的なもの(アガンベンが言うところの「剥き出しの生」)となる。そのようなナショナルな土台に由来する(ピエール・ルジャンドルがいうところの)〈テキスト〉は、もとい王がその臣民を斉一的に統治するための正当性を付与するための〈法〉であった。だが、そのような〈テキスト〉は、いまや国家が人民を統治するためのものへと「翻訳された」ものとなっている。それは祖国という〈ドグマ〉を無限に生産し続け、また私たちが愛国の演劇を演じるための「セリフ」としても機能する。

 「王」について知り、考えることは、「国民」としての私たち自身を知り、考えるためのヒントになる。というのも、「国のトップ」という存在は、何も遥か彼方遠くの世界のものではなく、私たち自身そのものだからである。久しく、日本では「国のトップ」といえば、政府の高官、あるいは象徴的な存在者としての天皇に限ったものとされてきた。しかし、もし日本が民主主義的な国家だというのであれば、それは甚だしい誤謬である。私たち各自が、「国のトップ」とする制度が民主主義であるからだ。「王」の生態を知ることが、民主主義における私たち自身を知ることになる、というのは直感に反しているのかもしれない。しかし、そのような違和感は、専制政治における「主」と「下僕」の関係性と、民主主義における「主」と「下僕」の関係性を混同しているからに過ぎない。