眼が象る社会問題

かなり広く語られるようになった「差別」にいかに抗うかという議論、西洋的価値観がこの社会に導入されてきた背景を踏まえるならば、西洋文明の世界観の根源にある視覚中心主義の存在も一際意識する必要もあると思う。反差別の認識が(皮肉にも)「目に見える特性」を特権化させている側面がある。すなわち、差別は「目に見える差異」に基礎づけられた認識・態度であるとする反差別の言説が視覚的に象られている。

しかしそのままでは、「目に見えない差異」による差別の事例を周縁化する構造に依存することになる。「目に見えない差異」とは何か。それは、日本人と韓国人、ドイツ人とイギリス人、アフリカ系アメリカ人とアフリカ系の諸民族...、といったような「隣人」同士の細かな差異のことである。またそれは、当事者間では認識しうるものであるにしても、三人称的には原則として肉眼で峻別するのは難しい。

どのような立場であれ、そのような微々たる差異を歴然とした隔たりと認識させる要素は、文化や習慣、言葉や規範、といった認識と行為に内在する非-自己的なものである。それをディスコース・マーカーとして、われわれは見た目が似ていても、一応の差異を炙り出す。しかし、その炙り出されたものは、身体的な差異と同じであるかのような決定論的な側面があるかのように、われわれは認識している。そこから転じて、視覚性はおおよそ身体性に由来している点も留意する必要があるだろう。

差別と反差別が踊る舞台として「社会的身体」は一応の形で存在する。しかし、実際にはその社会的な様相は削ぎ落とされ、身体的な様相が支配的な「差別/反差別」に拘泥してしまっている。そのため意図せずとも、われわれは〈社会性〉が欠如した身体が産み出す「抗う主体/抗われる客体」の枠組みから、差別問題とそれを解決するための反差別を語ることに終始するのだ。改めて、視覚性とはまた別のあり方で存在する差別構造とは、「小さな差異」を拡張するような観念的なものである。