今日の社会における日本人の市民意識について

突然だが、結論から述べることにしたい。日本人が民主主義を行為として実践するにしても、他者に対して「隣人的に」接することを知らなすぎた。また「隣人」としての他者を意識してこなかった歴史が長すぎた。アガペーに無頓着すぎたところが、日本人の市民意識の土台になってしまっていると感じる。

もし、民主主義の制度の中で市民意識を高揚するならば、擬態的ではあっても「キリスト教的な」考えと実践を行わなければならない。「八百万の神」に縋りながら民主的社会を追求することは難しいと思う。仮に後者を堅守しながら民主主義の深化を要求しても、それは「祭り」の再生産を延々と続ける程度の効果しか期待できないだろう。

それは「誰が主権者か?(Who is sovereign?)」という呼びかけに対して、「日本人」という答えがポリフォニー的に響き渡るような結束力を確かめるかのような「祭り」である。その中の空気は、人民 (people) とは何かという命題的な問いを吟味することを認めない。ましてや、その人民を構成しているのは誰か?という問いは「自明的すぎる」と軽侮される。意図せずとも、「日本人である者」が全員参加者だという、一辺倒な全体性が政治的参加のあり方までも定義している。

つまり、「我々は何者か」という政治的命題は、国民国家のシステム内に収斂される形で、不問に付される。もしそれをもって民主主義の常識とするならば、それこそこの政治制度の欺瞞を助長させるだけであろう。この社会で政治的な能動者でありうるのは、「日本人」に限られる。国民主権の原則が支配的である以上、移民や難民は「管理される客体」のままである。

J・スタロバンスキーがルソーを解釈する時に言及されるような「偶像破壊」に至るような革命を、我々は経験していない。ただ、この社会へのあらゆる不満の「ハレ」の儀礼を可能にするものとしての民主主義的な自由と権利を享受するばかりである。とは言え、本来ならば、「国民とは何か」という問いを起点として、「日本人」を象る構成的権力を再検証するべきではないだろうか。「日本人とは日本国民である」とするトートロジーに肖っているのは、何も国家権力だけではない。日本社会で市民として暮らす我々自身もそうなのである。