いないいないばあ:「わたし」はどこのひと?

アイデンティティの複数性を積極的に肯定する世相は、その渦中を生きる人間の生に対しての無知を晒す。しかし、それを責めるものはいない。「持たざるもの」は、「持てるもの」の生の諸相について知る由もないのだ。わたしは、両者の立場から物事が見えることで、両者ともに心の底から憎むようになってしまった。知らぬが仏であった。

わたしは、アイデンティティの問題に対して、当初は冷笑的な見方をしていた。というのも、こんなの外国系ならば、「成長期の人間あるある」だと思っていたから。ところが、今になっても帰属の問題における「いずれか」は執拗においかけ、それどころかひっきりなしに双方から脅されている。

例えばわたしのように、日本育ちの韓国人のケースだと、日本と韓国の両方に馴染みがある。一方、どちらの社会にも中途半端に身を投じた結果、双方にとって「身内」として内包されやすいと同時に、双方から「よそ者」として排斥されやすい立場に置かれることになった。

また人は人、<ナショナルなもの>に括られるほど人間は単純ではない、というような言説が、わたしが大人になっていくにつれて流布するようにもなった。だが、それはわたしにとっての処方箋になるどころか、再び現実を混沌に陥れるだけの毒でしかないと気づくようになった。やっと、自分という存在にも光が差すようになったと思いきや、社会のタヨウセイからすると、わたしのように見た目では「違い」がわからない他者は却って「厄介なもの」でしかないことに変わりないのであった。

そしてそこからわたしの日本と韓国への理不尽な、そしてとめどなく溢れる憎悪の感情は、水を得た魚のごとく勢いをつけることになった。日本、韓国という国家は憎い。それだけならばよかった。殊更厄介なのは、日本-「人」、韓国-「人」というように、個人と「ナショナルなもの」をくくりつけるような世界観が、わたしの意に反して支配的になっていることである。どれだけわたしが「違う」といっても、「ナショナルなもの」はいつまでもこの些末な存在を憎悪の殻に閉じ込めようとする。

それでもわたしは、毅然としてそのような「ナショナルなもの」が父権的に君臨することに対して「否」(non du père)と言う。ところが、そうすればそうするほどに、彼を通してわたしの心はひたすら憎悪という「父の名」(nom du père)を呼び起こすことになる。わたしはただ「ナショナルなもの」を憎んでいるだけなのかもしれない。もとい、そのつもりだった。だが、彼はより一層現実のパロディーとしての憎悪の虚構を、わたしに押し付けるのだ。