哲学書の読み方、どっちもどっち

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 東京大学の書店が毎年選ぶ、学部生のマスト本百選みたいなものがあるのだが、その意図・選択の妥当性を巡り議論は絶えない。殆どが哲学書で、しかもその哲学者の本編の著作だらけだから、というのがことの発端らしい。実際、先月駒場に赴いたとき、渦中の構内の書店のポップアップを覗いたが、僕自身たしかに「何やねんこれ」とはなった。

 そんな哲学書。本編の著作に直接当たるのが常に正しいとは思わないが、それに対して副読本(入門・基本書、解説本など)から著作にあたるのも常に正しいとは思わない。ただ、後者のやり方だと他者の解釈をもとに自分の「解釈」を紡ぐ上、本編に当たっても、自分の解釈が他者のそれに隠れたままになりがちだと思う。

 つまり、自分が「主体的」に解釈して読むことと、または他者の見解と自分の見解の「入れ子構造」を元に解釈して読むことの2通りは最低限ある。もちろん、この両者同士の「入れ子構造」による解釈もあるし、むしろ現実的にはそれが王道なのかもしれないが。少なくとも、哲学書を読むことについて、主体的に読むか、予め措定された枠組み(構造)に則って読むか、の二者択一では語りきれないのがある意味「本来的な姿」だと思う。