イメージの「構造」

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ソシュールっぽく言うなら、見えるもの(le visible)と見えないもの(l'invisible)の「表象作用」(représentation*)がイメージだと思う節がある。

つまり、ソシュール言語学において、シニフィエシニフィアンが恣意的な「関係性」(relation arbitraire)で結合して「記号」(signe)が生み出されることと、ここで述べたイメージの生成は類似点がある、と考える。

意識上のイメージと、意識下のそれは、切り離されて独立して存在しえない。つまり、両者は表出「されている」ものと、「表出「されうる」ものとの間に、リエゾン的な接合による関係性がある。

ただ、違いとして考えられるのは、言語の恣意性は人の認知のあり方に影響を与える傾向にある一方、表象(イメージ)の恣意性は人の感性に大きく作用する点である。なので、それがもたらす作用は、言語の意味作用(signification)より多様で、より直接的になりやすい。

難しい話はここまでにしておこう。つくづく思うのは、現前の特徴で、その対象の全容を語れないということ。日本語で言う「ひとは見かけによらぬもの」と、英語で言う 'Don't judge a book by its cover'に言明されているけど、その基底となる無意識にも「眼差し」を向ける視力は保ちたいと思う。

*Ici, j'ai pensé au pouvoir visuel résultant de la combinaison binaire entre l'image conscient et l'image inconscient.