「文系」と「理系」を越境する哲学を求めて

 哲学のその普遍的な汎用性の広さに今更いちゃもんをつける様な文言はしたくない。ましてや、自分自身、哲学が何なのかすら分かりようがないので、この文で述べたこともまた意味を成さないものなのかもしれない。

 だが、物怖じせず、敢えて言うならば、哲学至上主義に基づく「哲学」に将来性は感じない。そのような考え方で、他分野の学問に携わる人々、はたまた一般大衆を蔑むような発言を放ち続けるのはもってのほかである。なぜなら、哲学の思惟の崇高さに入り浸った者は、現前の大衆社会の力学に盲目となるからである。

 その様な酩酊状態によって霞んだ視野では、彼らの反知性的な数の力に圧倒される顛末すら予想だにできないのは言うまでもない。大衆が祭り騒ぎしてる最中、後の祭りで途方に暮れているのは、その様な哲学者である。そのような大衆は、むしろ「科学的な」立証性を声高に求める。とはいえ、その想起する「科学」とは、少なくとも専門知に拠るものから大概はほど遠い。

 それでは、科学者はその様な正当な科学の「実像」を可視的に立証しうるのか。これもまた、怪しいところである。かつて、原爆制作の原動力になったマンハッタン計画に代表されるように、肯定的な公益性を喧伝しては、その舞台裏で政治的権益、経済的利潤を科学者が享受しうる循環を作るための「装置」として科学が利用されたことは幾多とある。

 それでは、哲学と科学は、互いに架橋しあうことでその溝は埋まるのか。そこまで、問題は単純ではない。この両者を触媒させ合うことで知の再構築を継続的に試みるにも、まずはそれぞれが有する専門知の有限性を自覚することなしには、その実が花を咲かすことはないだろう。

 科学のための科学、哲学のための哲学の何れにせよ、そのようにして自己循環的な姿勢を貫くようでは、各自の世界観の正当性を排他的に主張し合うようになるからだ。それを踏まえると、たとえ哲学をするにも科学的な見識に通じている必要性があることが言える。その逆も然りである。

 それは、かのアイザック・ニュートンブレーズ・パスカルシュレーディンガーなどの科学者たちの知の射程距離を振り返れば、敢えて言明するまでもないだろう。哲学するにも、科学的な見識にある程度通じている必要性があるものの、フーコーやその他先例を除き、その数は歴史的に見ても僅少である。

 このように主張するのも、両者の親和性は、皆が想像する以上に高いものであるからだ。哲学的な探求方法から、古代ギリシャアリストテレスに代表されるような自然科学への考察の視座が形成され、またキリスト教社会では、その神学的な世界観が、科学による「神」の証を求めるきっかけを作った。総じて、学問の閉鎖性はそもそも予定されていたものではない。その本来の姿として求められているのは、学際的な知の発展であり、それは相対的に予定されている。