研究生活日記

f:id:wjk_9625:20230509013917j:image「イメージしやすいもの」がウケるのが、ごく普通な世の中だが、学問もまたその例外ではない。なぜなら、それに合わせた方が、周りの協賛を得やすいからだ。同時に、どれだけ専門を極めても、またどれだけオリジナリティを高めても、世間から理解されなければ、ただの無用の長物で終わりかねない。このようにして、世知辛い世界なのである。

一般的に、「研究者」に対して世捨て人のようなイメージを抱く人は多いように思える。何か道を極めている人。あらゆる俗っぽいものを捨てて、一つの頂を目指す高尚な人物、など。これらがどれほど事実なのかは、知りようがない。ただ、この世界の中のニッチな側面を取り上げて、それを徹底的に考え抜く点では、確かに事実だと言えそうだ。

それが故に、研究の成果は、一般大衆にとってわかりやすいとは言えたものではなうと思う。「わかりやすい内容で!」とか、「抽象的な内容は抑えて!」といった要求に対処できるものなら、その成果の新規性は疑わしいものだということの証左になると思うから。

言い訳になるが、先月公開された僕の研究ノートも、そのような「わかりようのない」代物だったかもしれない。フーコー研究、厳密には、その政治哲学と生命認識が交差するあり方を提示したつもりだったが、「こんなの知って何になるの?」という感想ばかりを抱かせたと思う。

とは言え、それでも社会にひらけた研究を提示する可能性は元から閉ざされたわけではない。なぜ、僕の研究がこれからの社会像を描く上で欠かせない要素となるのか。いかにして、僕の研究は、全体の公益性へ寄与し、言論においても一定の望ましい触媒をもたらしうるのか。そのようなことを踏まえた上で、また開かれた社会と上手くコミュニケートする中で、より良い学術的な成果を生み出していけたらと思う。