言葉は喋れてなんぼなのか

語学の習熟度の図り方として、その根底の考え方には「喋れてなんぼ」という意識があるのかな、と思う。一般論としても、コミュニケーションのための手段として言葉を習得するというのがある種の「常識的」な見方とも言えそうだ。

小難しい言葉使うならば、それってどこかジャック・デリダが批判してきたパロール話し言葉)をエクリチュール(書き言葉)より優れてるとするロゴス中心主義を意図せずとも反映させてるのかな、だなんて思うことがある。

デリダ脱構築の考えに、部分的ながら共鳴できるのは、僕自身エクリチュールパロールの流れで言語を会得したからなのかもしれない。こじつけかもしれないけど。日本語、英語、そして今やってるフランス語もまずは読み書きから始めて、その次に聞き取りと会話表現を学ぶという形でやってきた(きている)。

読み書きの重要性って今どき矮小化されやすいけど、いくら喋れても、エクリチュール的な側面が弱かったらもったいないと思う。デリダの言ってたことから少し逸れるかもしれないが、もっというと、意識下で言葉をあたかも記号の集合体と見做し(それ自体は間違った考え方ではないが)、その有機的な側面なんて存在しないと信じて疑わない、いわゆる「実証主義」的にげ言葉のあり方を捉えている人の方が圧倒的に多いようにも思える。

近年の外国語学習・教育なんか、そういった「物質としての言葉」という考え方を刷り込ませるためのカリキュラムに根ざして構成されているようだ。【言葉=意思を伝える「もの」】と考えるほどに、言葉はただのツールと捉えられやすいとも思う。それとは対照的に、【言葉=意思を伝える「こと」】と考えるほどに、言葉にも生命があることを認識する余地が生まれやすいようにも思える。これはまだ仮説でしかありませんが。