常識を「非常識」に捉え直すこと


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昨日は、某国立大にて志願先の研究室の教授と面談をしてきました。

総じて、非常に手応えを感じられた有意義な時間でした。その後は、ツイッターで前から仲良くさせてもらってる相互さんと、駒場東大前にある河野書店さんにて合流。お互い本を手に取りながら談笑を交わしました。

その後、渋谷のカフェに移動し、そこでは「対話するための対話」についてお互いの見解を交わしました。何を隠そう、これはグレゴリー・ベイトソンが云うところの関係性言語、あるいはミハイル・バフチンがいうところの「ダイアローグ的対話」から援用したものであります。

ですが、それを敢えて「非・自明化」することで(あるいはフッサール現象学的な意味でのエポケー、またはリクールによる疎隔の概念と置き換えてもよいでしょう)、対話をすることの意義、その成立要件について、時の流れを忘れるほどにお互い議論したのでした。そんな彼には、常に刺激を受けると同時に、その示唆に富む見解から、僕が学術研究の対象として措定している、精神疾患の哲学における「言語活動(対話)」、「主体」、「理性」の概念への論考を編み出していきたいと思いました。

「古いこと」から「新しいこと」を見出し、「新しいこと」から「古いこと」を見出す。そして、「当たり前なこと」から「ありえないこと」を見出し、「ありえないこと」から「当たり前なこと」を見出す。そんな研究をできたら、と思います。