<認識論>の基本構想:To Sum Up (1)

 

<認識論>?

ここで語られている<認識論>とは何か。あえて、括弧で括ったが、そこには意味がある。

 

それはまず、全ての哲学・思想を基礎づけるものであること。

 

Toute philosophie suppose une épistémologie, cela s'entend de soi-même : pour embrasser simultanément l'esprit et l'univers, il s'agit au préalable de fixer comment l'un des deux termes est relié à l'autre et ce problème constitue l'objet traditionnel de la théorie de la connaissance.

(Piaget, 1950: 11)

 

ここで措定されている<認識論>はどこか、Gilles Deleuzeによる差異(difference)、およびFelix Guattariとの共著(cf. 「千のプラトー」)に見られるような生成変化('Becoming')とどこかこだまし合うような。そんな感じで、異なる視点から編み出された概念同士の親和性(affinity)は確認されるように考えられる。

 

それぞれ微分(differentiation)という操作によって生まれた諸事象の固有性を抱握しつつも、一つの全体性に積分しうる可能性が残されることによって成立する全体と部分の緩やかな相関性を示唆しているとすれば、そこにはあたかもメレオロジー的な構造も考慮することだってできるだろう。

 

plato.stanford.edu

 

それはさておき。では、ピアジェの言う発生的とは何なのか。

 

La méthode génétique revient à étudier les connaissances en fonction de leur construction réelle, ou psychologique, et à considérer toute connaissance comme relative à un certain niveau du mécanisme de cette construction.

(Piaget, 1950: 13)

 

もし端的にまとめるならば、発生的方法論とは、ある対象を反映した人間認識の中で、「部分的に」拡張されて支配的なイメージになっているものと、それに押しつぶされる形で周縁化されたその対象の「全体図」の間で調律される認識秩序、およびその恒常性(ホメオスタシス)の有機的な姿を探求することを目的としたと言える。

 

まず、認識論が「発生的(な立ち位置)に戻った」、と言うのはどういうことか。それは、その学術探究が本来あるべき姿の方法論(methodology)を取り戻した、という前提が与えられていることを意味すると考えられる。何から「戻った」認識論なのか。おそらく、現時点での筆者の読みでは、次の二点を踏まえて解釈することができると考えられる。つまり、もし、遠く遡るなら、近代以降の啓蒙主義的な意味での「合理性」まで、そしてピアジェの時代に即して見ると、20世紀初頭以降、イギリス経験論を足場にして発達したアメリカで主流になった実証主義的なプラグマティズムの台頭にあると思われる。

 

これに関しては、今後ともに詳らかな文献調査を要するものである。ただ、少なくともピアジェが「発生的認識論序説」を執筆した戦後以前の西洋哲学における認識論は、もっぱらデカルトパスカル等に代表されるような合理主義的な認識論、あるいはイギリスのロックやヒュームに代表される経験論的な認識論(empiricism)の二つに大まかに分けることができたと言えよう。カントの著作を起点としながらも、人間認識の仕組みの説明のあり方をめぐって、大陸哲学とアングロサクソン系の分析哲学とで切れ目が入り、今や異母兄弟のような関係性になったのは近現代以降なのは違いようのない史実だと言える。

 

つまり、これから何を導き出せるのかというと、従来の認識論学者(epistemologues)が、人の認識を直線的で不可逆的な前身によって形成されるものと概ね了解していたのに対して、ピアジェはその複雑で、あるいは多様体としてどのベクトルにも移動可能で、その実相もまた幾多に変容しうる人間認識の姿を想起していたと考えられることである。この言質がどのような示唆を持ち、また理論としてどのような発展性があるかについての議論は、次回の投稿の宿題とする。

 

それでは、この認識論において期待されている方法論は、何のためのものなのか。第一に、認識の構築の定性的な探究に用いられると言うこと。これは、(その構築が)現実的に「せよ」、心理的に「せよ」、というふうに「いずれか」の条件が立てられている(disjunctive conditions)。ここに解釈を充てるならば、実体的な世界(actual world)における認識の機能と、潜在的な世界(possible world)における認識の機能とで、その作用の仕方に違いがあっても、いずれの場合においてその考察対象は、人間認識であり、それを構築する諸条件・諸要素を検証してその内部を洗い出すことに目的がある、と言えそうだ。

 

また、ピアジェはその次には「どの認識も、(現実的、あるいは心理的な)認識の構図の中の一つの次元と「相対的に」考慮するものだ、とも述べている。この箇所の言及に対する私自身の解釈は未だ決定的なものではない。だが、敢えて遜色なく述べるとすれば、冒頭に述べた「メレオロジー」的な相関性を母体とした認識の歯車が、少なくとも2つ存在していて、それが軋み合うような状況を示唆しているように思われる。

 

例示しながら、この言質の意味を説明する。もし、ある机の上に置かれている対象を「りんご」だとする「わたしの認識」を歯車Aとすれば、それを「みかん」だとする「あなたの認識」を歯車Bとする。この二つの歯車のモーターは、言語であり、その交換から派生していくコミュニケーションは、両者の歯車がひしめき合うための「フレーム」のようなものである。これを踏まえれば、従来の認識論、あるいは実証的な認識論は、両者の歯車は円滑に機能するものと信じて疑わないに等しい立場にある(すなわち、「あなた」と「わたし」の認識に齟齬があっても、「いずれか」の認識に帰着するのは必然的だとする)。それに対して、発生的認識論は、両者の歯車が円滑に回転することもあれば、その作動中にいつグリッチが起きてもおかしくないこと、そしてそのパターンは、たった2つの場合でも数多くの場合が存在することを想定したものであると考えられる(すなわち、机の上の対象は「りんご」であれば、「みかん」としてもありうることになるが、もし各自にそれを正当化できるだけの論理を行使できれば、それぞれの認識には妥当性があると一旦考えられる)。

 

('To Sum Up (2)'に続く。次回は、ピアジェ認識論の続き、およびベイトソン理論やバフチンによる対話主義も併せて考察します。)

 

引用:

Piaget, J. (1950). Introduction à l'épistémologie génétique (1): La pensée mathématique. PUF.