悩みのふりこ

 

 

心の疲弊とは別腹であるかのように、頭の動きは緩くなることを知らない。そんな性分だから、いつも精神衛生的に良くない思考や、感情が込み上がってはいつも呑み込まれてしまう。できれば、頭を休めたい。だが、せめてブレーキの掛け方をうまく習得するのが、現実的な対処の仕方であるように思える。

 直近の進路でもあり、今後の方針にもなることだが、「言語」と「認識」を架橋させて精神医学を学術的に論考するにはどのように計画すべきか考えていた。雑ではあるが、ミシェル・フーコーだけでなく、ピアジェベイトソン、そこにバフチンハーバーマスも斟酌した上で、「対話が構築する臨床的認識について」というテーマを一旦構想してみる。

 しかし、僕みたいに精神が外的な要素に影響されやすい人間が、この類の研究をして(色んな意味で)大丈夫なのか、という不安がある。ミイラ取りがミイラになって終わるだけじゃないか。心の病理に対して、客観性に立脚させた考察を、実際に心を病んでいる自分が論ずることは可能なのか。なるべく、今の状況としては休息を取るのが最重要事項ではあるが、これ以上将来の予定を先延ばししたくはない。なかなか悩ましいところである。