今後について:研究的な側面から

すでに察しのついた方も大方いらっしゃるかと思いますが、僕は非常に精神が揺らぎやすい人間です。大学院での研究テーマは、皮肉にも精神疾患の哲学に根ざしたもので、ミイラ取りがミイラになるようなものじゃないかと思われるのも一理のある指摘ではあります。

しかし、どうしてもこの問題を研究することを諦めることができません。

残念ながら、現代においても精神の異変に対する偏見・差別が未だに根強いのは言うまでもないことです。それに加え、未だに無理解・無知の体制によって社会の秩序が維持されているのもまた事実です。

社会という「病棟」に生まれた人間は、常識という予防接種ワクチンを打たれることで、「健全な生」を送れるだけの抗体を得ることができます。しかし、大抵の場合、人間はそこから退院することができません。なぜなら、外の世界は未知なるウイルスが蔓延していて、既存のワクチンの効用を無力化する虞があるからです。

かつて「異常者たち」は病棟にとじこめられている存在だとされていました。しかし、それは今や社会という「病棟」にとじこめられている人たち、つまり己の「理性」をもって他者の「狂気」を炙り出す「健常者」の主体のあり方にも言えるのではないか、と思います。

では、このような認識は社会で全体的に共有されているといえるのか。否、むしろそのような認識のあり方は今もなお、抵抗感を持たれやすく、忌避される傾向にあります。心の病に対する啓発・セーフスペースの形成もままならないどころか、セルフケア方法で対処しうる問題として通俗的に認識されることが多いように思われます。しかし、この問題は全体の福利の問題です。

この問題を考える上でカギになるのは、当事者とその他者の間で対話(コミュニケーション)がどのように樹立されるべきか考慮されるべきでしょう。故に、僕は修士の2年間では意思疎通の観点から、精神疾患への認識のあり方を論考します。具体的には、オープンダイアローグを事例にして精神疾患の治療法のあり方について研究をする予定です。

そのような「対話」研究から、個人の「主体」、「理性」へと抽象度を上げていければと思います。その次に、博士課程に進学ができれば、そこではもっと踏み込んで「主体」と「理性」の概念をより精緻に論考することを考えています。

総じて、僕の想起する「精神疾患の哲学」は、僕の人生における長期的なプロジェクトになっていくと思います。ミイラ取りがミイラになることを恐れてもしょうがない。僕が研究者として下積みを重ねる上での決意であります。

精神疾患、あるいはメンタルヘルスへの否定的な認識に少しでも揺さぶりをかけることができるように、そしてそれが「異常者たち」へのより包摂的な社会空間の設計につながるようになることを願いながら、研究していきたいと思います。


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