僕「哲学をこれからやりたいんだー」
友「そりゃな〜。どういう哲学?」
僕「(省略)科学とか合理性のあり方に焦点を当てようかなと」
友「うんうん」
僕「そんで科学哲学の研究室で認識論をやろうと考えてる」
友「ふぁ?科学??哲学??認識論???」
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という話の展開になりがちな僕です。まず相手の視点から見たとき、認識論をどう説明するかも大事ですが、その前に、自分がこの学問をどのように理解しているか。すなわち、認識論という分野に対して自分の「認識」はどれだけ落とし込めたものになっているかが重要だと思いました。
その上で、考慮すべき項目が主たるもので3点ほどあるように思えました。
①そもそもこの分野の一般的な知名度に対する自身の「認識」のあり方はどうなっているか。
②単に、認識論=知の理論でいいのだろうか。その内実を膨らませれば、多様な汎用性の余地はもっとあるのでは。
③似て非なる他分野(知識の社会学等)との特異性はどこにあるのかについて考えることの必然性。いわゆる「脱常識の社会学」に還元されるものなのか、というその存在論的意義の考慮。
…など。
これらを踏まえて文献読む中で、自分が考える認識論ってなんだろうというのをはっきりさせるのが今の自分にとって大きな課題なのだなと思います。
ここから話が若干飛躍しますが、もし、認識論の射程距離を端的に表すならば、【科学⇔社会⇔宗教】の3座標に集約されそうです。科学と宗教が断絶した現代において、その「場」になる社会はある意味中保者的な存在であるように思えます。舞台のセッティングが変われば、その役者の演技も変わるように、と言ったら極端かもしれませんが、社会の変容の仕方次第で、科学と宗教の関係性も変容するように思えます。
認識論は、そのような触媒の三角関係においてどのような役割を果たせるのか。これから解明度を上げて、取り組みを深めていきたいです。