「享楽としてのいじめ」理論の可能性

今でも、僕の心の中では入学してから卒業するまで6年間続いた小学校時代のいじめのトラウマが残り続けている。それが今でもぼくに悪影響を与え続けている。このように、精神分析を通していじめを理解する際に若干の恐怖心はあったものの、いざ文字に書き起こし始めたら、冷静に傷ついた自分の頭の中の整理にも繋がった。

 

今もこれからも根深いいじめ問題。この展望が少しでも明るくなっていくには、いじめ問題の問われ方を象る観点も同様に変わる必要性があると考える。故に、簡潔ながら以下の通りに論考をまとめる。

 

精神分析の対象としてのいじめ】

 

強者として立ち振る舞ういじめっ子は、その本性は弱者だとも言われる。その理由はおそらく他者の存在の中に、自分自身に欠如しているものを認識するからであろう。その仕組みの理解は、いじめっ子からいじめられっ子に向けられる欲望の流れを精神分析的に解析することで得られると考える。

この視座からの分析に基づいて、いじめ問題を巡る現状に改善の兆候を少しでももたらしたいのであれば、「なぜ、いじめは良くないのか」という倫理的な問いだけで議論することに留まらないようにしたい。なぜなら、そのような問題設定から生まれる「戒め」としての改善策や対処といったものは、却っていじめっ子の潜在意識の中にある「破戒」への衝動をさらに掻き立てて、現状をさらに悪化させてしまいかねないからである。

 

故に、その分析の眼差しは「なぜ、いじめは気持ちいいのか」という問いを綿密に設定した上で、それに真摯に答えていく姿勢が欠かせないのではないか、と私は考える。この問題設定の前提にはメラニー・クラインが提唱した「投影同一化」の理論がある。つまり、弱者を脅して威圧することから快感を得るいじめっ子がいじめられっ子という〈他者〉に自分たち自身が抱える負の側面、あるいは自分たちに欠如しているものを他者に投影することで、自分たちの自我と同一化することができる (cf. 内藤, 2009, 第3章) 。

 

ところで、憶測ではあるのだが、上記の加害者と被害者の否定的な同一化が成立することで一つ言えることがある。それは、いじめっ子は彼ら自身のファルスといじめられっ子のそれを「同一視」しているのではないか、ということである。このことから、いじめっ子は、いじめられっ子のファルスを用いることで「自慰行為」に耽ることが可能になるということである。

 

このような「マスターベーション」を恣意的にすることで、充足感を得るいじめっ子ではあるが、そのオーガズムは瞬時的だ。さらに、もしいじめられっ子がいなかったら、それは彼らにとって去勢された状態そのものであり、これ以上の苦痛はない。いじめっ子はその欲求不満を解消できなくなってしまう。だからある人間をいじめの標的にしては、その人を用い続け、不登校に陥るか、そのいじめっ子が自ら命を断つようなことが起きてしまった場合には、次の「ファルス」になりうる対象を捜し求める。いじめたことへの罪悪感、良心の呵責もない。なぜなら、いじめられっ子からすれば、自分の快楽を「自分自身の手で」発散させただけだから。


いじめの構造が産出する充足感、厳密にはいじめっ子の欲望は完全に満たされることは決してない。よって、いじめっ子の主体 (S) がいじめられっ子という大他者 (A) からの象徴的承認を攻撃的に得ることによって構造化されるのがいじめの仕組みではないか、と私は考える。では、その仕組みはどのように探求されるべきなのか。その一部として、私は以下の2つを挙げる。

 

(1) 享楽 (jouissance), 攻撃性などの理論をもとに、いじめっ子によるその加虐性への依存性、およびそれを保護する無意識を分析すること。

(2) いじめっ子の心理に敢えて「寄り添う」こと。言うまでもなく、この寄り添うという行為は、分析家の権威に優位性が置かれること、それが良識的な目的を以てなされることを前提とする。その主たる目的は、いじめの行為をいじめっ子たち自身はどのように合理化しているのか、または他者への攻撃を当然とする正当化するいじめっ子の心理・認識の仕組みをできる限り詳らかに解析することにある。

 

これらを踏まえて、僕ならどのような解を編み出すか、これからも思索を続けていきたい。

 

参考文献

内藤 朝雄 (2009)「いじめの構造-なぜ人が怪物になるのか」講談社現代新書

松本 卓也 (2015)「人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想」青土社