生政治ノート(随時更新)

① 自分の問題意識に関して(エスポジト『三人称の哲学』に基づく)

'In order to be able to assert what we call subjective rights - to life, to well being, to dignity - we must first enter into the enclosed space of the person. Conversely, in a similar fashion, to be a person means to enjoy these rights in and of themselves.' (Esposito, 2012: 2-3).

「いわゆる主体的な権利 -- 生命、福利厚生、そして尊厳に対するような権利--を主張するためには、人という閉じこもった空間の中に入らなければならない。転じて、同様に、人であることはこれらの権利を、それ自体において享受することを意味する。」(私訳)

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「私たち自身の中に居座り、変容を促す動物性によって、私たち(の人格)は定義されている。その根底には、アリストテレス的な政治的動物としての人間像がある。故に、人格の生政治的な身体化と、身体の精神的な人格化は表裏一体の関係性を成す」(画像部分: 私訳・抄訳) [Esposito, 2012, p.12]

コメント:

- 極端な例だが、猟奇的な犯行に至った人間は、その異常性の由来を「動物的な」側面に求められる。このような類の説明は、少なくとも18世紀以降の生物学や(精神)医学、犯罪学の文献を読んでみると、確認することができる。となると、(些か暴論だが)このような人間の異常性の探究の根底に、図らずとも「わたしたち」の生態に内在する「自然」≒動物性を特定しようとした側面は多かれ少なかれあったようにも受け取れる。

- ところで、野次馬な見解でしかないが、これを踏まえると、「動物倫理」を語れるだけの他者性を人間は確固たる形で持ち得ているのか、と思う節がある。というのも、そもそもとして、動物倫理で命題とされる「動物」とは、主体的な能動性が欠落したようなもの、むしろ植物化させられた〈他者〉であるように思える。

- また、我々が動物倫理を経由して、それ自身の行為や認識を省みるとしても、それは人間がその他の存在様式より特権的であるとする価値観を再認識することは稀である。厳密にいえば、人間とは、その中の〈動物〉性の否認によって、つまり人間性が完全に充溢した状態にしがみつく保守的な「動物」である。そのような人間性に基づく一面的な人間の条件は、再考の余地が大いにあるのでは。

②生政治における人間の主体について

以下、関連文献としてA・シュピオ (2017) にも言及する。

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「神の姿 (the imago Dei) として、人間は(絶対的な)「一なる」存在であり、それは不可分なものである。そして、人間は御言葉の力を享受する主権的な主体である。そして、また人間は受肉した霊でもある。しかし、そのような姿を持ち合わせながらも、人間は神と同一的ではない。(なぜなら)我々の特異性は、神の被造物であることに確認ができるからだ。故に、これら三つの特徴は、それぞれにおいて二面性を有する。すなわち、我々は固有な存在でありながら、互いに類似している。それぞれ主権者でありながら、〈法〉に従うことを期待される。そして、それぞれは精神的なものでありながら、物質的なものでもある」(意訳・私訳) [Supiot, 2017: p. 12-13]

コメント:
- 人間でありながら、動物/モノでもあるという観点は、否応なくカントーロヴィチによる二面的な身体性を彷彿させる。すなわち、政治的身体(body politic)と自然的身体(body natural)からなる、「王」の「二つの身体」は、現代だと「人民」のものとなっている。言い換えると、身体の二面性において、「頭」となる主体の位置する場所の変遷が生じている。

- 民主主義は、その意味で、身体の二重性によって定義されるような夥しい数の人民そのものと言えるだろう。つまり、民主主義的な社会は、(ジャン=リュック・ナンシー的にいうと)そのような人民の夥しい数の総和によって構成される、「複数にして単数の存在」をしたシステムだといえよう。ここにおいて、プラトン的な<一>と<多>の相関性に根ざした総和の問題、すなわち、社会的存在論のメレオロジー的命題が基底にあることを意識する必要もあるだろう。

(メレオロジーについては次を参照)

plato.stanford.edu

③生政治における知識の問題。

'I am convinced that paradigm shifts (and paradigm leaps to an even greater extent) occur in all the human sciences by incorporating a foreign element, which comes from the lexicon of another discipline. .... The theory of a double biological layer within every living being- one vegetative and unconscious, and the other cerebral and relational - was first put forward by Bichat in the form of medical knowledge, then ‘translated’ by Schopenhauer into philosophical knowledge and by Comte into sociological knowledge.' (Esposito, 2012: p. 6)

コメント:

ビシャが提示した医学的知識が、ショーペンハウアーとA・コンテのそれぞれによって「翻訳」されたことを指摘した上での「パラダイムシフト」へのエスポジトによる言及もある。この箇所は、おそらく、人間-性 personhood に基づく生政治の発展に対しての示唆として言及されているように受け取れた。

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以下、N・ローズ『魂を統治する』より。

'[T]he management of subjectivity has become a central task for the modern organization. Organizations have come to fill the space between the 'private' lives of citizens and the 'public' concerns of rulers.' (p.2)

'My approach differs from those that have become most influential in recent sociological literature. ...Socio-critique implies that this knowledge of subjective life is, in some significant sense, false or wanting; perhaps, even, that it is because it is false that it can have a role in systems of domination. Knowledge, that is to say, is evaluated in epistemological terms. My concern is [rather] with the new regimes of truth installed by the knowledge of subjectivity, the new ways of saying plausible things about other human beings and ourselves, the new dispensation of those who can speak the truth and those who are subject to it, the new ways for thinking about what might be done to them and to us.' (p.3-4)

コメント:
- N・ローズの統治性を巡る社会学は、主体的知識が象る「真理の体制」による言語ゲーム的な側面に根ざしている。また、主体論一般にも言えることだが、このような発話によって主体の存在が確認できるとする考え方は、アルチュセールの理論や、J・オースティンの発話理論にも着目した、ジュディス・バトラーの欲望・承認論とも共鳴するだろう(cf. 望月, 2013)。