クリスチャンの視線による認識論

〈創世記 1:27(口語訳)〉

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

最近だと、人は目に見えるものだけを認識できるとする実証的な科学像が常識的な価値観として受け入れられるようになっている。

そのような科学は「俗なるもの」が象る生活世界での掟を裏付けるために存在している。

ただ、私からすると、そのような世界観では人間の世界への適切な理解の仕方を提示するのには不十分すぎるように思える。なぜなら、「俗なるもの」はそれ単体では存在し得ないからだ。

すなわち、それと対をなす「聖なるもの」への我々の認識のあり方がどのように変容していったのかをしっかり研究する必要があるのではないだろうか。

真理だとか、普遍的法則を人間が見出すのは無理難題なことであろう。だが、諸行無常な世の中とは言えど、それをちょっとでも「普遍的だ」と思うのであれば、すでにその有為転変な世界観を「真理」と見做しているのだ。

ゆえに、人間は何をもって真理とするのかというその存在論的な命題から逃げられないように創造されたと考える。私見だが、「俗なるもの」の世界には必然的に「聖なるもの」が内在されている。

日常生活から、政治、経済、社会、人間世界のあらゆるところに「法」は機能している。具体的に例示し始めたら、枚挙にいとまがないくらいである。一貫して、その「法」を立案しているのは「神権」を行使しうる存在者である。

相変わらず、整合性に欠けた話をしてしまったが、人間は目に見える現前の世界(意識の象限)を通して、常にその裏側(無意識の象限)までも見ているのだというのが私の考えだ。もし、聖書に記されているように、人間の創造目的があるならば、それはまさしく真理の存在に基礎付けられた人間認識の生態を詳らかに解明することにあると思う。


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