ポストコロニアリズムという憑き物

ふと思うこと。というよりは、物心がついた頃から、ずっとわだかまりだったものである。

それはなにかだけ言うならば、日韓の歴史問題である。また意識高いこと言ってる、といえばそうだろう。僕だって、この話題における自分の立ち位置なんか意識しないでいたい。ただの第三者でいたかったのが本音である。だけど、やはり自分の出自からして、僕は常に日本と韓国の間を宙ぶらりしている。

歴史認識のあり方としても、日本人のものでも、韓国人のものでもない。いってしまえば、僕は、旧宗主国で知識人に相当する立場にいる旧植民地の人間である。僭越ながら、日本語の水準も、ネイティブとしては遜色なく、韓国語も、完璧ではないにせよ、それなりの内容は理解できる。

その意味では、サバルタン的な意識が自分を基礎付けている事実からは逃げられない。語るもの、語れないもの。どれも同じくらい多い。また、こんな立場だからこそ語るべきものがあって、それだからこそ語るべきではないものの分別を要求される。

下手に動けば、どちらの側に立つにせよ、連帯を示すという行為と意思表示は、越権行為になりやすい。だからといって、そこから距離を置けるほど、無神経なままでいられない。

ポストコロニアリズムの問題は、今に至るまで自分なりに真剣に考えてきたつもりではある。ただ、そこに時間が割かれていくたびに、自分への連帯は全くもって存在しないのではないか、という不安に押しつぶされそうになる。

もとい、他者と同じ価値観を持ち、同じ水平線で物事を考えることには限度がある。そうとはいえ、僕がこの国の知識人として享受してきた「特権」を否定する理由にもならないし、この国で生きてきたからこそ被ってきたあらゆる「抑圧」から目を背ける理由にもならない。

しばらく、僕の中でポストコロニアル的な、批判的理性は、眠らせておきたいと思う。仮初めにも、客観的にはこの国で知識人たる立ち位置の人間として見られかねない以上、墓場までこの問題は付き纏ってくるのである。