ポストコロニアル的理性の虚しさ

 私自身、未だ理解が拙いものはあるが、〈帝国〉の時代・世界を取り壊す戦略の形は次のようになるだろう。いわゆるポストコロニアリズムの理論において、〈抑圧者〉の言語と〈非抑圧者〉の言語の対立図式がある状況を打破するためには、その二元論の図式とその根源を解体するべきだとされている。しかし、かつての植民地の人間の主張と思想が、旧宗主国の世界に回収されていくような構造は依然として根付く残るだろう。

 日本が、その例外に位置しているわけがない。旧植民地の人間、とりわけ中韓の人間は憎悪のサンドバッグとして、東南アジア系に対しては性的娯楽の消費の対象として、南アジア系はエキゾチックな料理人、あるいは逸脱者の烙印を鋳造するための型として、〈抑圧者〉の快楽を満たす手段になっている。支配された過去をもつ人間の歴史と伝統が、その支配者にとっての「ダッチ・ワイフ」として使用され続けるような構図は残り続ける。

 さて、感情論を抜きにしてポストコロニアリズム研究で言われてることは、本来ならば「支配者」だった国・社会の出自の人の方がよく理解できるはずだ。元々その人たちの曽祖父の世代が作った世界の構造を対象とした学問領域なのだから。一方、自分は〈帝国の遺産〉にアクセスできる非植民者の末裔である。そんな自己の形象を、〈抑圧者〉の世界に内在する〈非抑圧者〉のものとするのか、あるいは脱構築的な戦略で根こそぎ解体するものとするのか。いずれの認識にも心底疲弊してしまった。そうなるくらいならば、そのように存在する=生きる自分自身を〈抹消〉=消滅させてしまえばいい、と思う次第だ。

 なぜ、かつての抑圧者が味わっていた・味わい続けている〈恍惚〉に対してその非抑圧者が告発する図式にはまらないといけないのか。つまり、いつまで抑圧者の帝国的無意識に寄り添う形に収斂していく議論に自分は関わらないといけないのだろうか。何かしらの形で考えていくにしても、僕の人生でポストコロニアル的な話をするのはそろそろ引き際が来ていると思う。